大阪大学の基盤となった緒方洪庵の私塾現在は大阪大学...
大阪北浜のオフィス街に江戸時代の町屋が遺された素晴らしい空間。
静かな空間に中庭があり各部屋からの見え方が美しい、小雨の降る時に訪れるともっと美しいかと思いました。
二階からは屋根の重なりが美しい。
こんな所で幾人もの門下生が学び今の日本があることを考えさせてくれる場所の一つ。
適塾周辺には他にも重要文化財に指定された古い建物などがいくつも点在していて魅力的な地区です。
大阪大学の前身「適塾」、全国から優秀な人が集まって来られたんだろうなと思います。
その当時の面影が忍ばれます。
きれいに掃除され気持もキリッと引き締まる思いです。
緒方洪庵は江戸末期の蘭方の医者、学者で、ここで医者を開業するとともに、私塾(適塾)を開いて人材育成に努めた。
この塾からは、福沢諭吉、大村益二郎、大鳥啓介など日本の近代化に貢献した多くの人材を輩出したことで知られており、大阪大学の源流の一つになっている。
(大阪大学が管理しているようです。
)この建物は江戸末期の大阪の町家建築が、改装されたりしながら、戦火にも耐えて残っていることに感動しました。
特にヅーフ(辞書持ち出し禁止)部屋や塾生の大部屋(一人一畳で生活)などが残っており、明治維新期のパッションが伝わってきました。
近くに来たら是非寄るべき近代日本の施設だと、思います。
(できたら、若い頃に来たかったです。
)撮影は、禁止物以外は大丈夫でした。
淀屋橋近くのオフィス街の一角に、まるで時の流れから取り残されたような古い木造建築が残る場所があります。
西側は今も現役の幼稚園(大阪市立愛珠幼稚園)として使われている建物。
公園を挟んで隣に建つのが緒方洪庵の旧宅(適塾)です。
緒方洪庵は幕末の医学者で、日本に種痘を広めた近代医学の祖と言われています。
洪庵の開いた適塾の建物は、その後8度にわたる大阪空襲にも耐え、解体修理や耐震補強工事を受けながら、昔の姿を現代に伝えています。
建物の内部は意外と広く、多くの部屋があります。
特に急な階段を上った二階の大広間は塾生の大部屋で、20畳以上の広さがあります。
日当たりの良い広間にたたずんでいると、その昔、多くの塾生たちがここで勉学に励んでいた様子が眼に浮ぶようでした。
適塾はその後の大阪大学の前身となり、今も大阪大学がこの場所を管理しています。
館内には洪庵や熟生にかかわる多くの資料などが展示されています。
ほとんどは複製ですが、資料や説明パネルを含む室内の写真撮影は禁止されています。
地味な存在ながら、大阪に残る数少ない戦前の建物としても貴重な歴史遺産と感じられました。
大阪のオフィス街のど真ん中にある商家風の古い建物。
この建物は幕末の蘭学者・緒方洪庵が1845年に住宅として移り住み、将軍侍医として江戸に赴くまでの17年間開いていた私塾「適塾」です。
緒方洪庵は医師でありコレラ・天然痘の予防などに大きな貢献をした人物です。
彼は足守藩士佐伯惟因の三男として生まれ、16才の元服まで足守陣屋城下(現在の岡山県)で育ち、1825年、足守藩大坂蔵屋敷の留守居役となった父とともに大坂に出て、思々斎塾に入り、その後、江戸、長崎などで経験を積み、1838年に大坂に戻り、29歳のとき医者を開業、合わせて蘭学塾「適塾」も開きました。
「学問のすゝめ」を著し、慶應義塾大学を開いた福沢諭吉や、戊辰戦争で薩摩・長州連合軍を率いて倒幕に貢献した大村益次郎も適塾で学びました。
日本の近代を生み出した場所と言えるでしょう。
1964年に重要文化財に指定され、現在の適塾の建物は大阪大学が所有し一般公開しています。
内部撮影禁止なのでお気をつけください。
緒方洪庵は江戸末期の蘭方の医者、学者で、ここで医者を開業するとともに、私塾(適塾)を開いて人材育成に努めた。
洪庵の大きな業績の一つとして、種痘所や分苗所を設けて日本における天然痘予防の先鞭を切ったことがあげられている。
またこの私塾は、福沢諭吉など日本の近代化に貢献した多くの人材を輩出したことで知られており、大阪大学の源流の一つになっている。
この建物は江戸末期の大阪の町家建築の代表的なものとされているが、同じく重要文化財になっている西隣の愛珠幼稚園舎(明治34年建築)とともに、大阪船場の歴史的景観を今に伝えている。
主な文化財(建築物)は下記。
・旧緒方洪庵住宅。
大阪大学の基盤となった緒方洪庵の私塾現在は大阪大学の管理運営で一般公開されています。
入館料は大人270円。
阪大生は無料のようです。
大山益次郎、福沢諭吉などの数々の覇者を生み出した、塾生が寝食も勉学もしていた大部屋が、そのまま保存されており、なかなかに感動できます。
何よりオフィス街のビルの谷間に、よくぞ取り壊されもせず、現在まで保存されたことに感嘆しなければなりません。
北浜と淀屋橋の中間に位置する適塾。
緒方洪庵の像かでんっとお座りになっています。
幕末から明治にかけて活躍した福沢諭吉や大村益次郎など、多くの志士を育てた蘭学塾。
現在の建物は国の重要文化財。
☆適々斎塾…「適々斎」は洪庵先生の号❗️緒方洪庵、生まれ故郷の備中国足守藩(木下家)を17歳で離れ大坂蔵屋敷へ、その後は江戸から長崎で本格的に蘭学u0026医学学び、天保9年(1838年)大坂に戻り、医師開業、合わせて蘭学処「適々斎塾」を開塾、塾生増え手狭になり1845年に北浜に引っ越し、塾生に日本陸軍の祖/大村益次郎・慶應義塾創設者/福澤諭吉・日本赤十字社創始者:佐野常民、橋本左内・大鳥圭介・武田斐三郎ら近代明治に貢献した錚々たるメンバー数知れず😲☆1863年緒方洪庵死去、1868年明治新政府の下、閉塾し発展解消、大阪医学校~府立医科大学~大阪大学へ⁉️
大阪の都心部のビルの中に突如現れる江戸の風情。
かの有名な緒方洪庵が開いた適塾。
この塾で学んだ若者達が明治の世を切り開いていった。
福沢諭吉、大村益次郎、鳳啓介は有名。
幕末の教育者、緒方洪庵が開いた蘭学の私塾。
福沢諭吉や大村益次郎など、幕末〜明治の大物が切磋琢磨した場所です。
大阪のど真ん中にあるとは思えないほど静粛な家屋で、雨天時に訪問したこともあり中庭のつややかさが素敵でした。
ラストあたりの大部屋の柱と、その説明を見て爆笑!これほどのビッグネームでも自分達と同じ人間なんだなぁ…と、なんかちょっと安心しました(笑)
緒方洪庵が開いた適塾です。
入場料は300円で、当時の面影を残す屋内は昔の邸宅好きにはたまりません。
階段がとんでもなく急なので気をつけて下さい。
当時の勉学に励む若者の姿が浮かんでくる。
幕末史に興味があるなら、伺う時間は無駄ではありません。
天井の低さから、当事の日本人のサイズが伝わってきます。
階段が急なので、荷物が多い方はスタッフの方が勧めていただけるロッカーを使ったほうがよろしいかと。
毎回 関西文化の日に開催される「ミュージアムに行こう!」の無料イベントに何処に観に行きます。
今年は先ず、敵塾·緒方洪庵旧宅に寄りましたが、北浜の街の中に此の様な史跡が在るとは意外でした。
2階建て、天井の低さは昔の方々の身長にも関係しているんでしょうね。
旧宅自体、味わいの有る佇まいと機能性の良さは感じました。
急峻な階段には要注意です。
大阪の街中に、綺麗に保存されていてビックリしました!夜でも中に入ってみれて嬉しかったです。
適塾に入塾したかったなから。
大阪人なら一度観ておかねばならない史跡だろう。
大阪大学に運営が委託されている。
この辺りは大阪の歴史だ。
ぜひ一度散策を! 再掲載と新規。
淀屋橋の真ん中に洪庵先生の塾が史跡として残っていたとは知りませんでした。
さすが大阪と街中を歩いているだけで感じされられます。
史跡、重要文化財。
蘭学者、医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に開いた私塾です。
目的もなくフラフラ歩くと、時々面白いものに出会う、今回はココ。
閉館ギリギリであったにも関わらず、入れてもらった。
駆け足で回ったが、昔のまま残されているらしく、見ごたえがあった。
ここから日本の西洋医学が広まったこと、福沢や大村など、多くの塾生が巣立ったことを思うと、感慨深い。
蘭学者・医者として著名な緒方洪庵が幕末期に開いた私塾で、洪庵の号である適々斎から名づけられた『適々斎塾』が正式名称です。
大村益次郎(近代陸軍の創設者)佐野常民(日本赤十字社初代総裁)橋下佐内(安静の大獄で処刑)手塚良仙(手塚治虫の曾祖父)福沢諭吉(慶應義塾大学の創設者)など、1000名を超える塾生を輩出して、吉田松陰の松下村塾と並んで日本の近代化をリードしました。
なお、大阪大学医学部のルーツでもあります。
大阪の古い町屋が丁寧にケアされて保存されていて一見の価値ありです。
260円で内部の見学もできます。
建物を外から見ただけですが、歴史を感じます一度体験してみたいです。
いわゆる間口の狭い、うなぎの寝床と言われる感じの建物ですが、奥が深く中庭や奥にも庭があり、空間をうまく使っていると言いますか日本人の知恵を感じました。
思っていたよりも中の部屋が広いです。
特に二階の塾生大部屋の広さに驚きました。
NHK大河ドラマの花神(総集編)に適塾での塾生が授業を受けている様子が描かれていますが、なるほどこの空間に塾生が密接して勉学に励んでいたのかとイメージできました。
ちょうど塾生大部屋の真ん中に柱がありますが、塾生がはめを外したこともあって刀傷が残っています。
橋本左内や福沢諭吉などがここで学んだのかと感じ入りました。
建物は耐震補強工事もされ、清潔、きれいに整備されています。
二階へ上がる階段があまりにも急でびっくりしましたが、有効利用を考えた上での設計かと思いました。
参観料も270円と安いので江戸の建築物や適塾に興味のある方におすすめします。
2015年かな、仕事で出張の際、こちらの前を通りました。
こんなところにあるんだと驚いた記憶があります。
今でもしっかり残っているのがとても印象的でした。
出張中だったので、写真はありません。
洪庵のたいまつ。
司馬遼太郎さんが晩年の1995年、小学生のために書いた緒方洪庵の一生。
江戸末期の大阪北浜(北船場)に、先生が開いた適塾には、大村益次郎や福沢諭吉らが暮らした。
蘭方医学の私塾でありながら、医学の他で名を残した人たちを輩出した懐の深さが興味深い(検索:ものづくりとことだまの国、20202月18日)
淀屋橋のビジネス街の中に、いきなり現れる史跡。
その昔、福沢諭吉も通っていたそうです。
史跡・重要文化財適塾、こんな狭いところで日本の歴史を変えた人物が育つたのしょうか。
全て學びに全てをかけた。
凄いですね。
現代でも感じる事が出来ありがたかったです。
街巡り散歩を繰り返していると資料館に食傷を起こし始めるのは私だけではないかもしれない。
けれども外観だけはと思い前まで来てみると玄関は人影がなく左側に開けて沓脱台の頭上にロッカーと書いたプレートが襖を指している。
誰もいない玄関にロッカーが押入という不思議さにほんの少し立ち尽くしたかもしれないその時、襖が開き「あっこちらでお願いします」と女性が一歩さがって入室を促した。
その快活さと一寸荷物を置きたい気持ちとが重なりすんなり入室し、あーそうかと思いながらも「ロッカーっていうのは?」というと狭い急階段や高さの無い古い戸があるので荷物を置いてもらうのだという、無料の木札のロッカーだった。
周囲は小さい売店のようになっていて「260円お願いします」といわれ、そこまではっきりした表示に気付いていなかったので或いはと思っていたがやはり入館は無料ではなかった。
「緒方洪庵って種痘をやった人?」「ええ」とやや戸惑った返答にパンフレットをわたしながらそれを見て来てよという含みがあるのは明らかで、私もそりゃそうだと苦笑いで振り向くとその部屋から展示は始まっていたが、斜めに見流すように奥へ入った。
一階は向こう側に縁と中庭があり畳に座卓と、見渡す範囲では昭和まではこういう家もあったなという印象だった。
その縁を右に行ったところに木戸の手洗いがある。
入るのはギシッと何か取れてしまわないか注意していたが中はひどくモダンな甕のような便器でこの点は最近見かける史跡でのリフォームと変わらない感じであった。
部屋に戻っても依然として一人であって中央の座卓を前に私は胡坐をかきパンフレットを開いた。
手ぶらであるし用も足した、あたかも家にいるようにとっくりと読んだ。
周囲の実物をよそに適塾について少しずつ解ってきた。
つまり今もそうなのだがWeb情報で済ませてしまうのが昨今の常となっていたが紙媒体のやさしさが伝わってくるようでもあり古来の和室の空気がそれと呼応しているようにすらすらとその中に入っていった。
読み進むうち大村益次郎、福沢諭吉らそうそうたる塾生の名が挙がって自分の馬鹿さ加減が明らかになるにつれ、これでしっかり実物を見る甲斐があるなどと勝手に得心し立ち上がった。
階段まで来ると立ちはだかるそれはほぼ梯子であった。
頭を上に出すと背中を一階の天井に擦るように這い上がった。
屋根の傾斜が部屋の配置に影響しているのか互い違いの通路的な部屋の並びにかえって趣があった。
ツに濁点が時代を感じさせる「ヅーフ部屋」は図書室のように使われ明かりが消えることはなかったという。
その角に茶室のにじり口風な間仕切りがあり向うに一段下がって空間が開けている。
頭を下げくぐると瞬間的に痛快さと懐かしさとに包まれるようでそこにも展示ケースはあるのだが天井の高さもあり視覚的には翻訳されて単に広間としてそこに立った。
「塾生大部屋」と呼ばれているようだが最も目に付いたのは「走り回らないで下さい」という注意書だった。
そう私も子供だったら走っていただろうか、いやむしろ走った覚えがあるとさえ思えた。
そして今度はこちらからくぐり戸や天井を眺めると中央の柱には刀傷もあるようだ。
この部屋も廊下に続くわけでは無く隅に囲炉裏を切るように梯子段がある。
登り同様苦労して下るとそこは玄関だった。
荷物を取りに襖を開けると係の女性が一人増えていた。
「走らないでって書いてありますね」「お子さんがみんな走るんです」私は深く頷いた。
「そうでしょう、私も書いてなかったら走ったかもしれない。
ところでつまりここは焼けなかったのですね?」「ええ、この辺は八回も空襲があったそうですけれど…」「ほーそれはすごい、何かあるのかな」と始末が悪くならないよう引き取った。
靴を履き振り返って壁に同化した梯子段を見た。
旅館の広間や寺の方丈等で走る衝動を抑えるようなことは疾うにない。
何故ここでは子供心が返るようであったのか、今立っているのは適塾の実物である。
建物の思念のようなものがあるのだろうか、塾生の明日を思う闊達さがそこに残っているのか。
だとしたら実体験というものはやはり掛替えの無いものだなと思い返していた。
ビルの谷に埋もれた瓦屋根が頼もしかった。
適塾で学んだ、大村益次郎を忘れてはいけないと思います。
NHK大河ドラマ(花神)のロケに使われていたのではないだろうか?ここから西の方、土佐堀通り沿いに大村益次郎の寓居跡があります。
幕末に活躍した志士を多数輩出した蘭学塾の代表格です。
種痘の普及についても、大きな貢献が有りました。
大阪大学医学部の元となった塾ともいえるかと思います。
佐幕派、倒幕派と両派に人材が活躍しましたが、明治の時代を支えたことは、疑いようがありません。
長崎市にあったシーボルトの鳴滝塾は、建物がありませんが、ここは、きちんと整備されていて、大変良いと思います。
中学生の頃から尊敬していた緒方洪庵先生のご自宅。
行けたことに感無量です。
ニッチでコアなファンしか訪問しないと思いますから、行けば必ず得るものあり。
個人的には、塾生達の大部屋と、ズーフ・ハルマのお部屋が感動的でした。
ここで明治を担うワカモノガ学問したり、喧嘩したり、侃々諤々やっていたのだろうと感じました。
近くに大坂の商人達が学んだ懐徳堂の跡地もありますよ。
家庭用電話機、マンションという概念で、旧日本家屋がもつ人との繋がりは一度死んだ。
適塾の中を見学すれば、この意味がわかると思う。
現代は物質的には遮断され、音と文字情報と電子を通した映像が主に通じ合っているのだ。
ここでは幕末のころの家屋の通例と当時の人々がどのように関わってきたのかが、復元されている。
柱や梁はほぼ、当時の素材をそのまま活かして復元したそうだ。
広い玄関で履物を脱いで襖を開けて始まる世界は、言葉だけで表現することは難しい。
西洋建築の影響を強く受けた現代のマンションや様式家屋からは感じることの出来ない異様な懐かしさがある。
見たことがないはずなのに、どこかここには懐かしさを感じる。
ガラスの貼られていない窓、遮断されていない部屋と部屋、二階から見渡せる一階の廊下、玄関を覗くことが出来る「覗くための隙間」などなど…家庭用電話機の子機、スマホ、トランシーバー、インカム、監視カメラなどなくとも迅速に情報を伝達するための工夫が随所に見ることができた。
階段の両脇に手すりなどない急斜な階段は、貯水タンクや下水道のハシゴを彷彿させる。
あっ、と驚く。
両手をしっかり使って階段を上がっていたことを身をもって体験できる二階への入り口は、ここへ来てよかったという喜びを誤魔化せない。
そして二階の部屋は門下生らのためにあったそうだ。
この部屋で集まっては熱心に書物を読み、討論したと記録にも残る。
それだけでなく、ここで鮮烈な血気を未だにこの目で確かめることができる。
12畳ほどの部屋の中央に残る長い柱。
そこには、日本刀でチャンバラしたとされる斬痕が何箇所も深々と、ありありと、刻まれている。
当時の人々の活力と、現代人の意志の弱さ・意欲の低さとつい対比してしまう。
偏った妄想に過ぎないが、蘭和混合の主屋で繰り広げられる緊張感も、若さゆえに時間となればはっちゃけて羽目外した記録まで残っているのだから、驚く。
のちに慶應義塾大学を創設した福沢諭吉の書籍・福翁自伝には詳細に当時の様子が書かれているそうだ。
普通科の高校を卒業し、経済学部を専攻した医学と語学に無縁な僕でも、十分な啓発を受け、時を超えて明日への意欲を頂けた。
世のため、人のため、国のためという言葉は、聖人君子や覚者だけのもので無いことも深く確信した。
適塾を卒業後、全国に散らばった670余名らののちの活躍を見れば、以下に社会課題に取り組むという経験が、のちに異なる分野においても大きな功績に繋がるのだと改めて教えてくれる。
日本語が読めるなら国籍問わず多くの人々に訪れて見てほしい史跡であり観光地だ。
言葉の壁があったとしても玄関で260円さえ支払えば、その肌で幕末の中を生きた日本人の生活観、人格を感じることができる貴重な場所とも言える。
少しだけ脱線することを書くとするなら、この史跡周辺は路面、付近の建物に大正から昭和の頃の建築を見ることが出来、建築に興味がある人にもうってつけのスポット。
最寄駅は 堺筋本町線の北浜駅。
でももし、関西空港から難波を経由して向かうなら、御堂筋線の淀屋橋駅が乗り換えもなく交通の便が良い。
緒方洪庵が江戸時代後期に開いた蘭学の私塾。
現存する日本唯一の蘭学塾の遺構で国の重要文化財に指定。
現在、大阪大学が管理維持しています。
空襲で焼けずに残ったのは奇跡的。
大阪の地下鉄淀屋橋と北浜の間にある適塾跡を見て来ました。
夜だったので暗かったがとても良かった。
今度は明るい時にまた見たい。
緒方洪庵の適塾。
現在は大阪大学が管理しています。
街中に残っているのは奇跡に感じます。
時間が合わず入館できなかったのが残念。
以前は撮影禁止っぽかったりウェブへの掲載は大学の許可を取ってからだとかいろいろとややこしかったが最近は何も言われなくなったところをみると諦めたようだ。
洪庵は岡山の人で17歳で来阪、中天游に学んだ。
天保9年(1838)洋学を志す者のために、自宅に塾を開いた。
1階の奥が洪庵の家族の住居で、2階は塾生が起居していた。
そのなかから、大村益次郎(ますじろう)・橋本左内(さない)・福沢諭吉・長与専斎(ながよせんさい)らを輩出し、また洪庵は、大坂で最初の種痘を実施するなど医学者としても活躍した。
大阪市HPより。
『医の世に生活するは人の為のみ、己が為にあらずということを其の業の本旨とす。
』緒方洪庵が愛したドイツの医学者クリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラントの言葉です。
この精神は、道は違えど「橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉、箕作秋坪、佐野常民、長与専斎、大鳥圭介 … 」などの人に受け継がれました。
今もこの言葉を胸に仕事されている方は多いと思います。
大阪は度々空襲にあっているにも拘らず、この様な幕末の町家が残っているなど奇跡に近いと思います。
ここは来るだけで当時の洪庵先生と塾生の熱気を感じられる有難い場所です。
名前 |
旧緒方洪庵住宅(適塾) |
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ジャンル |
|
電話番号 |
06-6231-1970 |
住所 |
|
営業時間 |
[火水木金土日] 10:00~16:00 [月] 定休日 |
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評価 |
4.2 |
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福沢諭吉も学んだ適塾。
疫病である天然痘と戦った医学者との認識でしたが、訪問する事で改まりました。
「医は仁術」を実践しながらも、塾生と共に西洋技術を吸収して後進育成にも尽力されていたんですね。
2階大広間で学んだ塾生達は一畳内で寝泊まりしていたと。
一通り学んだ後は酒の時間となり、勢い余って柱に刀傷を付けたとの解説には驚嘆😲