愛媛県指定文化財(記念物・史跡)です。
吉村昭『花渡る海』の主人公、ロシアに漂流して安芸国賀茂郡川尻浦に生還した久蔵(きゅうぞう)が修行に出されて過ごした寺。
宇和島に何度も足を運んだという作家の面目躍如たる日露交流史のある視点。
同市内の願成寺にも奉公した久蔵は、貧困から抜け出すため、灘郷の舟運業に水主として就業していた兄卯兵衛を頼って同じ水主の人生に乗り出すが、江戸へ向かう樽廻船が潮岬に達する前に不運にも破船、ロシア・カムチャツカへ漂流。
艱難辛苦を経て、鎖国下ニッポンに生還。
ロシア人医師ミハイルに托された牛痘菌を携行していたが、お取り調べでは蔑笑され(細菌学など存在すらせぬ鎖国政策)、結果天然痘の蔓延する徳川幕藩体制はなすすべもなかった。
宇和島城主🏯伊達家のお墓が有ります。
公衆トイレなどは有りませんよ。
夏の夕暮れ時、川の水の流れる音、蝉の鳴き声、そして鐘の音とても心地よい音色都会で思い出せば、色々な景色を思い出す。
水子供養で有名です。
墓地が散在しているので分かりにくい。
愛媛県指定文化財(記念物・史跡)です。
伊達秀宗の墓伊達家初代藩主伊達秀宗と殉死した家臣の墓4基の墓と共に県史跡に指定されている。
向かって左に、秀宗墓の隣から江戸藩邸で殉死した近臣の宮崎八良兵衛と高島太良右衛門の墓が順に並ぶ。
向かって右は、秀宗墓の隣から宇和島で殉死した近臣の神尾勘解由と御小人の渡辺藤左右衛門の墓が並んでいる。
同時に大隆寺にある夫人亀姫の墓も指定されている。
昭和40年(1965年)12月24日指定。
伊達宗城と夫人猶子の墓向かって右に8代藩主宗城と、左に正室で鍋島斉直の娘・猶子(益子)の墓が並んでいる。
昭和44年(1969年)2月12日指定。
また、宇和島市指定記念物(史跡)でもあります。
宇和島藩主伊達家墓所大隆寺にある墓所と共に昭和36年(1961年)11月3日に指定。
桑折宗臣の墓伊達秀宗の四男で家老職を務めた桑折宗臣の墓。
西墓所に隣接する墓所にある。
昭和38年(1963年)2月11日指定。
大隆寺とともに宇和島藩伊達家の菩提寺になっているお寺です。
初代藩主秀宗をはじめ2代3代6代8代(宗城)の墓があります。
お城めぐりを趣味にされている方には宇和島城の序でに立ち寄ってもらいたい場所の一つです。
殿様の菩提寺の一つで秀宗公が祀られています。
もう一つの菩提寺は金剛山大隆寺です。
愛媛県指定文化財(記念物・史跡)です。
伊達秀宗の墓伊達家初代藩主伊達秀宗と殉死した家臣の墓4基の墓と共に県史跡に指定されている。
向かって左に、秀宗墓の隣から江戸藩邸で殉死した近臣の宮崎八良兵衛と高島太良右衛門の墓が順に並ぶ。
向かって右は、秀宗墓の隣から宇和島で殉死した近臣の神尾勘解由と御小人の渡辺藤左右衛門の墓が並んでいる。
同時に大隆寺にある夫人亀姫の墓も指定されている。
昭和40年(1965年)12月24日指定。
伊達宗城と夫人猶子の墓向かって右に8代藩主宗城と、左に正室で鍋島斉直の娘・猶子(益子)の墓が並んでいる。
昭和44年(1969年)2月12日指定。
また、宇和島市指定記念物(史跡)でもあります。
宇和島藩主伊達家墓所大隆寺にある墓所と共に昭和36年(1961年)11月3日に指定。
桑折宗臣の墓伊達秀宗の四男で家老職を務めた桑折宗臣の墓。
西墓所に隣接する墓所にある。
昭和38年(1963年)2月11日指定。
地元では「竜華山(りゅうげさん)」と呼ばれるお寺です。
初代藩主「伊達秀宗」、二代藩主「宗利」等のお墓があり、宇和島ではもっとも位の高いお寺です。
等覚寺とは宇和島藩初代藩主 伊達秀宗の戒名の等覚院殿から付けられた名前のため、地元では等覚寺と呼び捨てにすることをはばかり「竜華山(りゅうげさん)」と呼ぶのだそうです。
古くひなびた大きな山門がとても印象的です。
この山門下の石段が道路に堂々とはみ出しているところを見ても、このお寺がただ者でないことを伺い知ることができます。
伊達家の墓所の一つ。
ここには、初代秀宗と村年らが眠っている。
もう一つは川を挟んだ向かいの大隆寺。
名前 |
等覚寺 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
0895-22-1199 |
住所 |
|
評価 |
4.0 |
伊達家の菩提寺、一度行ってみたく、立派なお墓でした🙏お寺も。