碑と当時の画像を載せた説明板のみ。
今では高速道路の陰になってしまいましたが、在りし日は運河として魚河岸があったようです。
注:妖怪ババではなく乙姫です。
はっきり言って魚市場発祥など、この石像の前ではさしたる関心事になりえない。
碑と当時の画像を載せた説明板のみ。
魚市場の面影はありません。
日本橋の橋詰の室町側東には日本橋に魚市場があったことを示す「日本橋魚市場発祥の地」と刻まれた石碑が建てられています。
石碑の足元には「乙姫広場」と刻まれた石板が置かれ、石碑の脇には、乙姫なのでしょうか、女性の坐像があります。
その脇に数段の階段があり、上ると日本橋を遠目に眺めることができる6畳間ほどのスペースがあります。
花のハンギングバスケットが吊るされてちょっとした憩いの公園です。
現在豊洲にある水産市場は、長く築地にあり親しまれてきましたが江戸時代から魚の市といえば日本橋でした。
日本橋から築地に移ったのは関東大震災がきっかけだったということで、日本橋の街から魚の市場があった様子は全く見えませんが、この石碑だけがその歴史を示しています。
日本橋魚河岸跡。
江戸の発展とともに魚市場は繁盛。
魚市場は朝千両、芝居小屋は昼千両、吉原遊廓は夜千両と言われた。
嘗て日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いにあった魚河岸。
江戸時代から約300年にわたり江戸の食を支えてきたが、大正12(1923)年の関東大震災では壊滅的な被害を受けて築地へ移転した。
歴史を伝える魚河岸跡にも拘らず腰掛けるベンチもないのは浮浪者対策?
江戸時代から関東大震災まで日本橋川を利用した魚河岸があった所。
震災後、築地に移転。
現在は碑が立っているだけ。
関東大震災以前まで、ここに魚河岸があった。
震災後、築地に移転。
日本橋には江戸時代から魚河岸、魚市場があり、江戸の発展と共に大変栄えたそうです。
周辺には海苔や鰹節などの海産物の店ができました。
今でも日本橋には海産物の老舗があります。
魚市場は関東大震災後の東京復興計画で築地に移転しました。
この場所は緑の多い、都心の水辺の小さなオアシスです。
見晴台からの日本橋と船着き場の眺めも素敵です。
シンボル像は乙姫様ですが、なんとなく逞しさを感じます。
像の裏側は小さな広場になっているがベンチもなく、休憩には向かない。
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。
ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。
この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。
しかし、大正12年(1923)の関東大震災で、壊滅的な被害を受け、築地へ移転となり、300年余りの歴史に幕を下ろすことになりました。
江戸時代には千住のやっちゃ場から魚が運ばれて魚河岸がありました。
関東大震災前まで、日本橋から、江戸橋辺りまで、魚河岸街が有った。
たくましい乙姫像です。
名前 |
日本橋魚河岸跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.7 |
幕府は市中に比べてかなり格安に魚を買い上げていたとか。
いけませんねぇそんなお役所は。