駐車場がどこか、どこから古墳に入って良いのか判りに...
下調べをしてないと、駐車場がどこか、どこから古墳に入って良いのか判りにくい。
墳丘そのものは規模も大きく、比較的に形を保っているようです。
住宅地と線路の間、でも田んぼがあって・・・こんもりとした森って感じで古墳の全体像を掴むことはできないです。
孫は古墳よりも虫取りに夢中でした。
駐車場の案内がないと一般の人にはわかりにくい場所です。
跨線橋の脇にある東武線の線路脇に駐車しましょう。
東日本最大の古墳。
誰のお墓かわからない。
ヤマト王権と関係のあった豪族の墓と言われているが如何に。
東日本で最大級の前方後円墳である「太田天神山古墳」は古墳と言うよりも小山のようです。
かなり大きな古墳でした。
スタンプラリーをしていたようで、親子で訪れている人たちが多かったようです。
駐車場が分かりづらかったです。
古墳と鏡はリンクしている川や水路と古墳が関連している特に関東では、この群馬の古墳が川の上流にあり、特に古い。
陸路交流が盛んになるのは、中期以降に馬型埴輪の出現と連動している説があり、初期は河川交通のため、上流が古く、下流に同様縮小墳墓が作られていて、支配系統なのか、連絡路だったのか、旅先の古墳を意識すると面白いかとおもいました。
『天神山古墳前』のバス停あります。
本数は少ないです。
県道が、後円部分の一部をかすめているので、県道も古墳の一部と考えると、楽しいです。
県道から見える石碑は『昭和十六年建設』と表記されていました。
約八十年前のこの石碑もすごいと思いました。
緑豊かな気持ちのいい古墳ですが、古墳の登り口と駐車場の位置が正反対という、ありえない配置で見学しにくいことこの上ない。
線路沿いに駐車場がありますが、整備された通路などは無く、空堀の中をズカズカと歩いて行きます。
そして好きなところから登れます。
良くも悪しくも手付かず感があります。
しかし、そのスケールは東日本一だけあって、高さや大きさともに大きいです。
墳丘長210メートルを誇る東日本最大の古墳です。
「秘境グンマー」は古代においては、これだけのものが作れる経済力・技術力・人口・組織力を持った圧倒的先進地帯だったのであり、輝ける関東の文明の中心地だったのです。
その頃、東京など人跡未踏の僻地に過ぎなかったでしょうから、群馬県人はもう少し自信を持って下さい。
(笑)天皇陵と違って実際に墳丘に登って、その巨大さが実感出来るのは貴重。
形状としては誉田山古墳(応神陵・墳丘長425メートル)と同じく後円部が低く、前方部が太短い前方後円墳としては比較的新しい形状です。
応神陵と相似形なので設計図を流用して2分の1スケールで作ったのでは? という説もあるほど。
それにしてもブルドーザーやユンボの無い古代において、これを作るのにどれほどの人手が必要だったのやら。
今度Go To トラベルとイートを利用して、群馬の古墳巡りに。
かなり遠くからなので、一生懸命ににわか知識を詰め込んで行く。
明日香村の様に期待しないで、古代を味わうことを希望。
果たしてどうなるか?
写真は道路を挟んだ向かいにある女体山古墳ですが、天神山古墳は東日本一の大きい古墳で全体を写真に収めるには地上からでは難しいです。
歩道も狭いですし、古墳自体が人工的な山なので中を散策するなら草と虫対策が必要です。
駐車場はあるにはありますが線路沿いで少しわかりにくいかもしれません。
おっきいので驚きましたがあまりメジャーではないようです❗
とにかく無茶苦茶大きい! 本当にこれ古墳か?と思うほどの大きさです。
東日本では最も大きいと聞いて納得するほど、ほぼ山です。
隣接する女体山古墳と対で男体山と呼ばれていたというのも納得の大きさです。
古墳と言われなかったら普通に山ですね。
これが人力で平地に土を盛ったものだとは昔の人は思えなかっただろうな…と、訪問して改めて思いました。
近くに駐車場もありますが、入口がわかりにくい上、細い道なので注意が必要です。
遊歩道があるわけではありませんが、木立も整理されており、踏み固めて道もありますが、ちゃんとした靴を履いていったほうが安全だと思います。
夏場は虫や草も多そうなので、手足を出したままで訪れるのはあまりよくないでしょう。
人家の中を通って行くと正面に社があります。
鳥居もありますのでお参りするときのマナーは忘れずに。
墳丘は社の方から上る方が行きやすいようです。
近くにある女体山古墳と合わせて見学すると面白いと思います。
それにしても大きい古墳でした。
子供時代に近所に住んでたら毎日ここで遊んでるでしょうね…!!
東日本で一番でかい古墳です。
駐車場もちょっと離れた線路そばに用意されてます。
駐車場から古墳を見ることはできますが、農地が行く手を遮りますので、ちょっと回り道をします。
途中新興住宅街を通ります。
道筋には駐禁の文字がたくさん見られました。
最大というだけあってホント大きい。
ちょっとした山のような状態。
大きな木が生えており、森の中を進むような感じ。
そのため虫が豊かに飛んでおり、季節によっては虫除けスプレーを使ったほうが良いと思います。
中央部には天満宮の祠が祀られてます。
葺石を所々で見ることができます。
墳丘長210mの前方後円墳、築造時期は5世紀前半から中期頃と推定。
東日本では最大、全国では第28位の規模の古墳。
国指定史跡。
天神山の名は後円部の上に、古くは天神様を祭る天満宮の社があり、これに由来すると言われている。
以下、ウィキペディアより抜粋。
「埋葬施設は盗掘を受けているが、長持形石棺が使用されている。
長持形石棺は畿内王墓に特有の石棺であり、その使用から被葬者とヤマト王権との強いつながりが想定される。
北東300mには女体山古墳(帆立貝形古墳、国の史跡)があり、両古墳は基準尺・方位の点で同一企画下にあることが知られる。
上毛野地域(かみつけの:現・群馬県域)では、天神山古墳登場以前までは東毛の首長(別所茶臼山古墳)と西毛の首長(浅間山古墳・白石稲荷山古墳)とが個々に存在したが、東毛の首長が伸長し、ヤマト王権の後ろ盾のもと上毛野地域全体に及ぶ支配を確立して築造した古墳と位置づけられる。
」
駐車場は古墳南側の線路に沿って10台分くらいあります。
超重要な古墳なのに特に整備されておらず。
5世紀前半の古墳時代中期に造られた前方後円墳です。
墳丘の全長は約210メートルて、全国26位の規模を誇り、東日本では最大の古墳になります。
墳丘は、前方部は幅約126メートル、高さ約12メートル、後円部は直径約120メートル、高さ約17メートルになり、二重の周堀を含めると長さ約355メートル、幅約285メートルの規模になります。
後円部に、畿内の大王級の古墳にのみ用いられた、長持形石棺があった様子はわかっていますが、未調査のため詳細は不明とのことです。
東日本(最大級ではなく)最大の古墳で、五世紀後半に築造され、当時は日本国中でも5番目の大きさだったとか。
被葬者の巨大な勢力を象徴している。
当地が上野国・下野国の境界近くにあることからも、被葬者は両毛全体の支配者だったのだろう。
しかし6世紀に入ると毛野国は上毛野国と下毛野国に分裂したらしい。
偉大な権力者の死後にはよくある話だが。
この古墳を保渡田八幡塚古墳のように完全に復元整備したら素晴らしい景観になるだろうね。
東日本最大の古墳らしい。
古墳自体は大きくて立派だが、専用の駐車場も分かりづらいし、駐車場から古墳へ行く道のりも人ん家の畑の間を入っていくような地図が駐車場に小さく書いてあるだけで、途中に道案内の看板などもなくて、かなり分かりづらい。
東日本最大級の前方後円墳にしては、文化財としての整備がほとんどされておらず、専用の駐車場すら無い。
天皇陵をも凌駕するサイズなのに墳丘に立入可能。
Beautiful walk along an ancient burial mound. Some of the artifacts that were excavated here can be seen on display in the Gunma Prefectural Musuem in Takasaki.
東日本最大級の前方後円墳。
大変にパワフル。
名前 |
太田天神山古墳 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0276-20-7090 |
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/bunkazai/otabunka44.html |
評価 |
3.8 |
周辺のオススメ

古墳時代中期の前方後円墳。
東日本では第一位の規模。
未調査。
体よくいえば自然のままの状態、有り体にいえば、放ったらかしだから、墳丘は立派な雑木林になっていて踏み固められた小道もあり、枯れ葉やドングリが夥しく散乱している。
冬枯れの墳丘を赤城下ろしが渺々と吹き過ぎて行く。
東側に鳥居があり、その少し上には神社らしき木造建築物が一棟。
墳丘の最高所の雑木の幹に天神山との小さな標識が出ている。
規模が大きいだけに一旦雑木林に踏み込むと、ちょっとした山登り気分になる。