浅草寺の東側にある「二天門」。
浅草寺の東門として建立されました。
漆の塗替えが終わり、綺麗な姿になりました。
1986/3/29来訪。
35年前の写真です。
それ以降も行ったことはあるのですが、写真があるのはこのときだけです。
浅草浅草寺の二天門になるここは浅草寺に向かって右側に位置してる門でもあり浅草神社の直ぐ隣りにも位置してる門だよ🙄
数少ない(笑)境内の重要文化財のひとつ。
向かって左が増長天像、右が持国天像です。
2011年に営繕が終わったばかりで綺麗になりました。
夜は怪しい色のライトアップが施されています。
浅草寺の東側にある「二天門」。
東の押上にある「スカイツリー」が出来てからはとても良い写真📷が取れるスポットとして賑わっています。
東京大空襲にてほとんどが焼失してしまった浅草寺の中では江戸初期の建築がそのまま残っていると言う事で文化財としても貴重です。
かつては浅草神社の随神門としても機能していたようですが、明治の神仏分離令により、浅草神社と浅草寺は別けられて現在のカタチとなったようです。
(神像は浅草神社に移設され、今は「天」が鎮座しています)浅草寺には雷門、宝蔵門、そしてこの二天門とホントに特徴的な門があります。
浅草寺 二天門の早咲き桜かな?寒い中いっしょう懸命に咲いていました。
今年の冬はとても暖かいので桜も少し早いかな?
浅草寺の門。
空襲で焼け残った歴史ある門のらしいです。
自分は、浅草神社参拝の気分を出すためにこちらをくぐりました。
こちらの門から見る、浅草寺の本堂もなかなかいいと思うのですが。
門から近くに、12月に咲く桜の木が一本あります。
他の人は紅葉とかにきを取られて見てないようです。
もともとここにあった像は、浅草神社の方にあるようです。
本堂の東に建つ朱塗りの門で、今の門は1649年に浅草寺の東門として創建された。
当初は随身門といわれ、豊岩間戸命、櫛岩間戸命を守護神像として左右に祀っていた。
1884年、神仏分離によって随身門に安置されていた随身像は、浅草神社に遷座されて、鎌倉の鶴岡八幡宮から広目天と持国天の像が奉納された。
このとき名称を随身門から二天門と改めた。
この二天の像は、1945年に修理先で戦災にあって惜しくも焼失し、現在の持国・増長の二天像は、1957年に上野・寛永寺の厳有院から拝領した像。
門に向かって右が持国天、左が増長天である。
二天門は境内に残る江戸時代初期の古建築として貴重であり、国の重要文化財に指定されている。
2010年に改修を終え、創建当初の鮮やかな姿によみがえった。
焼けずに残っている最古の遺構。
観光バスを降りるとこの門の前。
浅草観光のワクワク感が高まる。
私はバスを使って浅草寺に行くときはこちらから入ります。
入り口前にはマツキヨもあります。
外人さんはそちらで生活必需品を買います。
入るとまず浅草神社があります。
こちらをお詣りしてから浅草寺に行きますが、今は外国人が多くて修学旅行の学生より多くてどうなんでしょうか。
浅草寺本堂東側、東に向かって建つ、重要文化財。
切妻造の八脚門、1618年(元和4年)建立で、太平洋戦争の東京大空襲にも火災炎焼を免れた貴重な建築物。
現在、門左右の二天の持國天・増長天は上野寛永寺の徳川家綱の霊廟・厳有院から移築されたもの。
本堂の東に建つ朱塗りの門で、今の門は慶安2年(1649)に浅草寺の東門として創建された。
当初は随身門といわれ、豊岩間戸命、櫛岩間戸命を守護神像(随身像)として左右に祀っていた。
神仏分離によって随身門に安置されていた随身像は、浅草神社に遷座されて、鎌倉の鶴岡八幡宮から広目天と持国天の像が奉納された。
このとき名称を随身門から二天門と改めた。
この二天の像は、昭和20年(1945)に修理先で戦災にあって焼失し、現在の持国・増長の二天像は、昭和32年(1957)に上野・寛永寺の厳有院(四代将軍徳川家綱霊廟)から拝領した像。
門に向かって右が持国天、左が増長天である。
二天門は境内に残る江戸時代初期の古建築として貴重であり、国の重要文化財に指定されている。
名前 |
浅草寺 二天門 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-3842-0181 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.2 |
詳しくはわかりませんが、歴史的な門なのに見学者はごくわずかでした。
近くにいかれる際はぜひ見学してみてください。