平日お参りに行き御札を買いたいと思いましたが売場は...
宮司さん禰宜さんご夫婦が優しい方ですね。
手合わせお参りすると心が癒されます。
青ノ山の西麓に有る由緒有る社です。
元々は土器八幡宮として応神天皇をお祀りしていましたが太平記にも出てくる白峰合戦の折、当社で出陣の祈願をした細川頼之が攻め込まれ当社まで退却し様子を見ていると田に潮が満ち助けられた逸話から当社を田潮八幡宮と改名し土地を寄進した様であります。
青ノ山に抱かれて境内にも多くの木々あり一体化した様に見えます。
また多くの神々の祠も祀られておりますし拝殿は立派唐破風を持つ屋根です。
本殿は桧皮葺きの立派なもので拝殿からはかなり高い位置に立てられていて威厳さえ感じられます。
社務所の方がすごく感じのいい方。
静かに参拝できました。
おごさかな神社でした。
御朱印は、メチャクチャ美しい!
お忙しい中、小走りで社務所まで来ていただき感謝します。
見開きの御朱印いただきました🎵
社務所が開いてなくて見開きの御朱印は頂けませんでした。
電話も繋がらず残念。
由緒正しい神社落ち着いた雰囲気が味わえます。
平日お参りに行き御札を買いたいと思いましたが売場は閉まってました。
1361 年の正平南海地震の津波が石碑に記されている神社?田潮八幡宮の石碑には、次のように潮が押し寄せたことが刻まれています。
「南北朝時代、貞治元(1362)年 7 月、細川頼之が将軍足利義詮(よしあきら)の命により、細川清氏を攻めた時、(中略)全讃史には、はじめ源少将が攻めてきたとき、頼之は、しばらく当社付近へ退却したが、社前の水田地帯一面に潮が満ち、敵軍を防いだので、田潮八幡宮と称されたと伝えています。
」 このとき潮が満ちたと云うのが正平の南海地震津波であった可能性があるのではないかと指摘されています。
確かに田潮八幡宮前は、現在でもに低地となっています。
南北朝時代、細川頼之が将軍足利義詮の命により、細川清氏を攻めた時のこととして、社前の水田地帯一面に潮が満ち、敵軍を防いだこと、そのため田潮八幡宮と呼ばれるようになったこたが刻まれています。
研究者の間では、これは 1361 年の正平南海地震の津波のことではないかとされています。
石碑は鳥居の奥に2km 程度入ったところにある田潮八幡宮の石碑にその由来が刻まれています。
石碑刻。
名前 |
田潮八幡神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
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年代があるやしろです。