小学校の正門前に立て看板があります。
小学校の正門前に立て看板があります。
城跡と言う名前ですが、全く城跡はありません。
この城は戦国時代の天文年間から天正年間の60年程,西植田から出てきた神内氏が居住していたところです。
神内氏は西植田に300石,木太に700石の領地がありました。
今は木太南小学校の敷地の辺りです。
この回りには宮川が流れています。
この地区には西には松繩城があり、東には向城がありました。
向城はおよそ400メ―トル位しか離れていません。
どちらも香西氏の配下でありました。
当事は、香西氏との領地問題でいざこざが、絶え間なかったと思います。
土佐の長曽我部の来襲があり、この城は開け渡したのです。
最後の城主の神内清定の墓はこれより西に100程行ったところにあります。
名前 |
神内城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
現在は高松市立木太南小学校のグランドからプールから南側辺りが少し高台に成っておりますし、また南側から北側にかけて蛇行する詰田川が東側からの圧力に対する天然の掘に成ります。
地元ではこの辺りを「城屋敷」と呼んでいたようです。
また小学校の南東部の詰田川に白山橋が架かっていますが以前は石橋で場内への通路であったと伝っています。
現在では小学校や民間地で開発されて遺構は全くありません。
小学校の南側のプール横にある門の脇に説明板が有るのみです。
城主は戦国時代植田氏の一族で神内右京進景之、清定父子が植田郷から出て十河氏に属し、植田で三百石、木田郷一帯で七百石を領していました。
東の向城、西の松縄城が共に香西氏に属していたのですが、それを十河氏の勢力の神内城が中に割って入った形に成っています。
天正十年、土佐の長宗我部軍が十河城を攻めた時は神内一族も城内で必死に防戦に努め根強い抵抗で土佐勢を退くた。
しかし二年後、再び長宗我部軍が攻め入り十河城は陥落、清定は領地を失い本山郷に住むが、後に城跡に帰り慶長四年四年に没し城跡西200mの薬師堂の近くに葬られたと云う。
この書き込みは高松市の説明板を参考にしています。