この場所は小笠原家の発祥の地であり全国の小笠原家は...
高倉天皇に滝口武者として仕えた父・加々美遠光の所領のうち、甲斐国巨摩郡小笠原郷(現・山梨県北杜市明野町小笠原)を相続して、元服の折に高倉天皇より小笠原の姓を賜ったとされる。
ただし、『吾妻鏡』において長清が小笠原を名乗るのは元暦元年(1184年)以降で、建久6年(1195年)までは加賀美と小笠原の名乗りが混在している。
なお、巨摩郡の小笠原という地名は現在の山梨県内に2か所知られ、長清が領した小笠原は今の南アルプス市小笠原にあった原小笠原荘と今の北杜市明野町小笠原にあった山小笠原荘のどちらにあたるかで研究者の間で論争になったが、古文書の研究から前者が正しいとされている。
源頼朝挙兵の際、19歳の長清は兄・秋山光朝とともに京で平知盛の被官であったとされ、母の病気を理由に帰国を願い出て許され、主家である平家を裏切り、治承4年(1180年)の富士川の戦いで頼朝の下に参じたと伝えられる。
また同じく知盛の被官であった橘公長らを鎌倉御家人に引き入れる仲介を担った。
治承・寿永の乱において戦功を重ね、養和元年(1181年)2月1日には頼朝の仲介で有力御家人であった上総広常の娘を妻としている。
なお、2年後に広常は頼朝に誅殺されるが、長清夫妻は罪に問われず長清の妻が父・広常の所領の一部を継承している。
その後、文治元年(1185年)、父・遠光は源頼朝の推挙で信濃守に任じられ、のちに長清も信濃守に補任された。
また武田信光・海野幸氏・望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称されて、26歳のときに頼朝に出仕し、鎌倉幕府の御家人としての小笠原氏の基礎を築いた。
建久5年(1194年)、頼朝が東大寺再建の木材調達と造像を御家人に賦課した際には多聞天を担当している。
源頼朝没後、子の長経が二代将軍源頼家の近習であった事から、建仁3年(1203年)9月の比企能員の変に連座して処罰されたため、一時小笠原氏は没落するが、姉妹である大弐局は二代将軍源頼家・三代将軍源実朝の養育係を務めて小笠原氏の鎌倉での地位を維持しており、嫡男の時長は次期将軍三寅の鎌倉下向の随兵を務めて鎌倉での活動が見られる。
建保4年(1216年)には頼朝の菩提供養の御願寺の建立を実朝に申請し、許可を得ている。
承久3年(1221年)6月の承久の乱では、幕府方の東山道大将軍として子息8名と共に京へ攻め上って功績を挙げ、「七ケ国管領」となる。
同年7月、京方の公卿源有雅を甲斐山梨郡稲積荘の小瀬村で処刑している。
同年に阿波国守護となる。
仁治3年(1242年)7月15日、信濃にて81歳で死去。
『吾妻鏡』に拠れば長清は弓馬の術に優れ、建久4年(1193年)3月21日に鎌倉の鶴岡八幡宮にへ奉納された流鏑馬においては22人の射手が選ばれているが、この時に小笠原長清は武田信光・海野幸氏・望月重隆とともに射手を務め、源頼朝より弓馬四天王と称されたという。
名前 |
長清寺 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.5 |
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この場所は小笠原家の発祥の地であり全国の小笠原家は訪れるべきである。
北杜市は長清寺をもう少しきちんと管理して欲しいものです。