大和北部八十八ヶ所の札所です。
境内の入り口は鹿よけの柵がありますが、勝手に開けて入れます。
ゴールデンウィークあたりに咲く「なんじゃもんじゃの花」が見事です。
興福寺の南側にあり、訪れる人も少なくないのでGWの喧騒から離れられる静かな佇まいです。
奈良の寝倒れ死んだ鹿を興福寺に鹿の死骸の清め銭を三文払わなくてはいけないので早起きは三文の徳と云う諺が生まれたとか鹿が間違って食べて死んでしまうので、ビニールのゴミはポイ捨てしないで欲しいです。
またお辞儀をする姿が見たいがために餌を上げるのを渋らないように。
ここのクチコミのお蔭で、三条通から鹿よけの戸を開けてお詣りすることが出来ました、有難うございます。
南の方からも階段を上がって入れます。
時代のありそうな五輪の塔や祠など、奈良らしい重厚な佇まいです。
手習い中につきまとう鹿を追い払おうと物を投げ、うっかり殺してしまい、興福寺の訴えにより死刑にされた子供(三作君、当時13歳)の塚があります。
当時、鹿は神鹿として害すれば死刑、の絶対の扱いでした。
石詰めの刑といって大きな穴に死んだ鹿と一緒に入れられ、大量の石を投げ入れ生き埋めにされる刑になったそうです。
その後、母親が香華を手向けに通い、自分の死後に誰も弔ってくれないだろうことを心配し、永年の花として紅葉の木を植えたそうで、鹿に紅葉、のデザインの商品が昔から奈良に多いのはそのいわれとか。
近松門左衛門の作品に取り上げられたり、今では大切に祀られています。
でも…、今度は長生きするようにと真上にでっかい石の巨大亀が載せてあったり…亡くなった場所に更に大量の大石を積んであるので、石で苦しんで亡くなった子供なのに、もう石は勘弁してあげてほしいな。
どけるか、せめてちょっと横にずらすとかできないものかと思いました。
合掌。
『興福寺十三鐘傳説石子詰について』説明板この一帯は、菩提院と云い、別名十三鐘とも云います。
日本最初の大御堂(本堂)は今から千二百余年前、玄昉僧上の建立と伝えられます。
その後、火災に逢い現在の堂は正親町天皇の御建立であります。
御本尊は阿弥陀如来座像(鎌倉時代)です。
ある日、興福寺の小僧さん達が大勢この堂で習字の勉強をしていた処、一匹の鹿が庭へ入り小僧さん達の書いた紙をくわえたところ、その小僧の一人、三作が、習字中に使用していた、けさん(=文鎮)を鹿に向って投げました。
ところがこの一投の文鎮は鹿の急所に命中し、鹿はその場にて倒死しました。
当時、春日大社の鹿は、神鹿とされ「鹿を殺した者には石詰の刑に処す」との掟があった為、鹿を殺した三作小僧は子供と云えども許されることなく、三作小僧の年、十三才にちなんだ一丈三尺の井戸を堀り、三作と死んだ鹿を抱かせて井戸の内に入れ、石と瓦で生埋になりました。
三作は早く父親に死別し、母一人、子一人のあいだがら、この日より母「おみよ」さんは、三作の霊をとむらう為、明けの七つ(午前四時)、暮の六つ(午後六時)に鐘をついて、供養に努めましたところ、四十九日目にお墓の上に観音様がお立ちになられました。
その観音様は現在大御堂内に稚児観世音として安置されています。
子を思う母の一念せめて私が生きているあいだは線香の一本も供える事が出来るが、私がこの世を去れば三作は鹿殺の罪人として誰一人香華(こうげ)を供えて下さる方はないと思い、おみよさんは紅葉の木を植えました。
当世いづこの地へ行っても「鹿に紅葉」の絵がありますのも石子詰の悲しくも美しい親子愛によって、この地より発せられたものであります。
又奈良の早起は、昔から有名で自分の家の所で鹿が死んでおれば前述のような事になるので競争したと云われます。
今でも早起の習慣が残っています。
同境内地に石亀がありますのは「三作の生前は余りにも短命で可愛想であった次に生れる時は亀のように長生できるように」との願いにより、その上に五重の供養塔を建てられたものであります。
南側の大木は銀杏とけやきの未生の木ですが、母親が三作を抱きかかえている様であると云われています。
何時の世にも親を思う心は一つ、こうして、三作石子詰の話が、今もこのお寺に伝わっているのです。
」
大和北部八十八ヶ所の札所です。
興福寺の子院で、御朱印は、興福寺の勧進所でいただけます。
松門左衛門の草した浄瑠璃『十三鐘』で有名とか。
名前 |
大御堂 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.4 |
興福寺菩提院です。
閉門しており、そとから参拝させて頂きました(‐人‐)