時の長者・巌氏(いわうじ)が自ら人柱となり完逐した...
片道自転車で2分強くらいかかる。
景観はとても良いです。
淀川花火大会などもここだとよく見えるとは思いますが、まぁ恐らくは陣取れません。
柴島や西中島南方〜天八へ行く最適解な道ではありますが、北に橋が到着間際に分かりにくい枝分かれされてるので注意です。
あと、ここと東にある豊里大橋は○察の切符切りの絶好のポイント稼ぎともなる橋なので、くれぐれもスピードの出しすぎはしないで下さい。
白いアーチが特徴の、淀川に架かっている美しい橋です。
現在の橋は昭和58年(1983年)に完成したものです。
橋の南詰には、第二次世界大戦中の昭和20年(1945年)6月7日にあった大空襲で被弾した、先代の長柄橋の橋脚の一部が保存されています。
この場所で約400人が犠牲になったとのことです。
橋の北詰上流側には、明治42年(1909年)に架けられた初代の長柄橋(もっと昔にも長柄橋という名の橋はありましたが場所が異なります)の親柱が、静かに建っています。
淀川の南北を繋ぐ交通の要衝として、上下5車線をひっきりなしに車が走り抜ける長柄橋。
ゆっくり歩道を歩きながら、歴史に想いを馳せるのもいいと思います。
長柄橋から河口側には阪神高速左岸線工事で入れなくなりました。
約2年間散歩出来ません。
歩道が狭いのでチャリでゆっくり走るのがベスト。
天気が良い日は気持ちいいですよ。
よく長柄橋を渡るんですが淀川上流からの眺めが最高に綺麗ので橋はほとんど写せていませんが付近の写真です。
淀川を🚲や徒歩で渡れる橋。
南森町から天六真っ直ぐいけば、見えてきます。
橋の上からの眺めは最高です。
東淀川区側に渡る時、初めてだったら少し戸惑うかもです。
右と左に分かれるのですが、左側かなり窮屈で急な坂カーブありの折り返しありでけっこう危ない道感でした。
右もかなり狭い道です。
夜とか明かり点いてるんかな。
点いてなくて通る方々はかなりスペシャリストです。
最近車道、歩道共利用していません。
古い大阪人にはなじみ深い「長柄橋伝説」。
弘仁3年(812年)に架橋され、架けても架けても流される長柄橋に困っていた造橋使は、いよいよ人柱を建てるしかないかと悩んでいて、土地の長者に相談したところ。
「袴に横継ぎのある人を人柱にするとよい」と提案されたのだが。
長者本人が横継ぎのある袴を着ていたため、その場で造橋使にとらえられ、長者は人柱にされてしまった。
それを嘆き悲しんだ長者の娘が「もの言わじ 父は長柄の人柱 鳴かずば雉も 射られざらまじ」と詠んだ。
口は災いのもと、という教訓を示唆する伝説ですが、そんな人柱伝説を生むほどの難工事だった長柄橋。
しかし、苦労の末につくられた橋も架橋から40年後(853年)には廃絶。
大坂と京都を結ぶ交通の要衝にす架かる橋。
すぐに再建されたものかと思いきや、再建されるのは廃絶から千年以上も経った明治42年(1909年)。
ただし、再建された現在の長柄橋は新淀川に架かる橋なので、昔の長柄橋とは違う場所であり、長柄橋伝説の橋は現在の長柄付近(長柄川)に点在していた島々を結ぶ橋の総称だったのではないかといわれています。
再建まで、藤原定家や和泉式部といった歌仙たちをはじめ、歌や物語の中で「幻の名橋」として愛され続けてきた長柄橋は、すでに失われてしまった華やかな立令時代を象徴する橋であり、架橋場所は違えど名前を引き継いだのでしょう。
現在、橋の北詰の親柱には「古今集」から長柄橋にちなむ二首が刻まれています。
川を渡るだけなのに、ワクワクするのなぜか。
歩いて渡ると結構長いはしです。
よく一般の方向けの公開サイン会をやっています。
通勤で歩いてます。
淀川に架かる橋。
北区長柄と東淀川区柴島を繋いでる。
淀川に架かる他の橋より眺め良し。
弘仁(こうにん)3年(812)に架けられたと伝えられる長柄橋は、時の長者・巌氏(いわうじ)が自ら人柱となり完逐したという悲しい伝えをもつ。
その後、僅かで橋はなくなり、明治初期に木橋が架けられ、昭和55(1980)年に現在の橋となった。
ニールセンローゼ橋の特徴がよく出た美しい橋です。
名前 |
長柄橋(淀川) |
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ジャンル |
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電話番号 |
06-6615-6818 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.6 |
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2023/02/06改装してました♪