やはり東海から西のお城は眩い。
三方ヶ原の戦いの前年の1571年、信玄は遠州の高天神城を攻めるが落とすことができず、虚をついて東三河へ侵攻するも(二連木城の戦い)、背面を豊川/朝倉川に守られた堅固なこの吉田城を落とすのは容易ではないと判断し、兵を引いたと言われるその堅固さがよく分かり、思わず頷いてしまいます。
見どころは、石垣と空堀、豊川の眺めかな…
三河国東部の要の城として、徳川家康と深い関わりのある城。
最初は1505年に国人領主の西郷氏が築城し、安城松平氏や今川氏等の支配を経て1565年以降は三河を統一した徳川家康の支配下となり重臣の酒井忠次が入った。
豊臣政権下では家康の関東移封後、家康の娘婿の池田輝政が支配下においた。
江戸時代以降は譜代の大名が入封し浜松城同様に出世城と呼ばれた。
天守閣はなく、かわりに黒鉄櫓を代理天守としていたらしく、櫓とは思えない重奏な造りである。
2018/8/8いつも関東の城を訪ねているわたくしとしては、やはり東海から西のお城は眩い。
特に近世まで存続した城は石垣が素晴らしい。
この吉田城は東海道の要の城の一つとしてかなり堅固に造られており本当に素晴らしい。
豊橋市〔豊橋公園・吉田城跡〕に富田良穂歌碑が建っている。
三河なる二葉の松の生立てる今はときはの色にいづらむ 良穂 昭和46年(1971)10月建立。
富田良穂:明治・大正期の歌人、愛知県の人。
毎年冬の11月下旬にこの前の広場で手筒花火が開催されます。
轟音とともに冬の夜空に火柱を噴き上げる手筒花火は、豊橋が発祥の地だと言われています。
その起源は、今から遡ること400年以上も前だと言われていて、まさに豊橋の伝統文化とも言える存在です。
暗闇に潜む悪霊に炎の光を照らして追い払う「魔除け」、災厄が家屋に浸入するのを防ぐ「厄除け」そして「五穀豊穣」「無病息災」を祈る奉納行事として、今日まで連綿と受け継がれてきています。
揚げてが脇の横に両手でしっかりと筒を抱え、巨大な火柱を噴出させ、最後に「ハネ」と呼ばれる炎が足元に大音響と足元に噴き出すダイナミックな様子はまさに迫力満点!
名前 |
吉田城鉄櫓 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0532-51-2430 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
石垣が素晴らしい城でした。
勢力が入れ替わり立ち替わりとなったところですが、要衝の地として大事にされてきたようです。
裏手の川と石垣がとくに美しいです。