菅原道真・大国主命・事代主神などを祀っています。
福島天満宮さん夕方初めて歩いて路地裏から鳥居の奥に社がありました。
呼ばれた気がして方向かえて参拝夜は門がしまってました。
これも何かあるんだろうと感じた参拝でした。
新福島駅1番出口から道路渡ってすぐ!!こぢんまりした神社でした。
ずっとずっと昔から福島の土地と人達を守って来たのでしょうね...
街中にふと入口見つけてお参りさせてもらいました。
入るとこじんまりしてるけど、落ち着ける境内です。
またお参りさせて頂きます。
街中なので敷地はそれ程大きくなかったですね。
でも地域の守り神なんですね。
夏祭りの時は賑やかなようです。
おみくじは¥100でした。
でも、なぜか境内に包丁研ぎ師がいました。
なぜなんでしょう。
すぐそこに JRがあり かなりの人が集っている立地ですが 境内は不思議なほど 静かで落ち着ける場所です。
こちらの神社は、大阪府の地名1(平凡社刊)によると、菅原道真公が、九州太宰府に左遷される途中、この地で風待ちをしたとの縁から、その古跡を偲んで創建(西暦907年:延喜7)されたと伝わるようです。
私は菅原道真公とは誕生日が同じ(6月25日、私は太陽暦ですが...。
)で、個人的に崇敬しています。
そのため、天満宮があれば、お参りをしています。
この季節は、受験シーズンでもあり、参拝に来られている方も多くありました。
学問の神様菅原道真公をお祀りしている神社、旧社格は村社俗に福島上の天神といわれる。
都会のど真ん中と思えない位、趣がある素晴らしい建物と空間です。
この天満宮は俗に「上之天神」と言われており、菅原道真・大国主命・事代主神などを祀っています。
社伝によれば延喜元年(901年)に菅原道真が、藤原時平によって九州大宰府へ配転させられた際、この地の里人徳次郎が旅情を慰めたことをいたく喜び、飢餓島と呼ばれていたこの地に「福島」と名付けたらしいです。
その後、菅原道真が大宰府で失意のうちに死亡したのを聞いた里人らが小祠を建てたのが起源とされています。
規模は小さいですが、お詣りされてるかたが多かったです。
2021年1月16日の朝に大黒天様に会いに伺いました。
都会の中にコンパクトですが周りの樹木が聳え立っていて風情があります。
隣はおでん有名の店花くじら、朝うどんが堪能できる三くがあります。
早起きして参拝してみては?
周りのざわつきとは異なり神社の中に一歩足を踏み入れると静かな空間。
さらに進むと今度は子供達の声がしますが、神社の裏には幼稚園があるようです。
何故か天皇系のパンフレットがありますが・・・微妙。
平成30年5月21日参拝菅公聖蹟二十五拝 第十二番御朱印なし(現在御朱印の授与を取りやめているそうです)祭神:菅原道真、大国主命、事代主命、少彦名命旧社格:村社延喜元年(901年)に菅原道真公が九州の大宰府へ左遷させられた際、村人が一行を丁重に迎えて親切にもてなし、公はこれに感謝して御礼に布地へ自らの姿絵を描き残したことから創建されたと伝わる神社。
都島区に鎮座する 桜宮神社 神社内も広く ゆっくり参拝でしました。
御朱印を書いて頂いたのですが とても丁寧で 説明書きした紙も専用の封書に入れてくださり気持ちよく帰る事ができました。
2018/4/21(土)御朱印をお願いしたら、今中止してますと言われ、それで理由を聞いたら「マナーが悪い人がいるから」だそうですσ( ̄∇ ̄;)一部の屑野郎のせいで真面目な人がとばっちり喰らうのは許せませんな(# ゜Д゜)これから毎日、転売屋を焼こうぜ🎵
福島駅から徒歩10分くらいでしょうか?大きな木々が生い茂る、静かな神社です。
御朱印をいただきました(^^)
駐車場はありません。
周囲にたくさんコインパーキングがあります。
夜間は扉が閉まるのでご注意を。
稲荷さんの他に、四ツ並びの摂社があります。
広くないけど、シンとした空気感に覆われています。
浄正橋の南西の神社さんです。
この近くは美味しい店もいっぱいあります。
御祭神の菅原道真公の家筋は、代々学問を以て仕えたが、道真公に至りその秀でたる才能は、朝廷の厚い信任を得て政界にに重用せられ、醍醐天皇の昌泰二年、皇室の外戚として権勢並びなき藤原氏一門の間に伍して、遂に右大臣にまで任ぜられた。
果たせるかな、藤原氏一門の激しい反目のもとに、左大臣藤原時平の讒言により九州の太宰府の権帥(副長官)に左遷せられた。
時に御年五十七才。
醍醐天皇の延喜元年二月一日、当時の都-京都を出発せられた道真公は、途中、河内道明寺の御姨ー覚寿尼のもとの名残つきぬ別れの一夜を惜しまれたあと、淀川より船路西のかたをめざされることになる。
当時の淀川の本流ー今の堂島川のほとりなる福島の地は、大阪港より海路を目指す船旅の風待ちの所。
九州下向の失意の旅路の道真公一行を丁重に迎えた土地の徳治郎なる者の心からのもてなしに、いたく喜ばれた公は、謝するに術もなしと、折りふし里人の織り成した布に親らの御姿を描き与えられた。
現在も此の御自画像が当社の御神体とされている。
又、土地の名を問わせられた処、『鹿飢島』又は『葭原島』なる由を答えし処、『鹿飢』は、『餓鬼』に、『葭』は『悪し』に音が通じ何れも良からず、又徳治郎の徳の字の縁に因りて『福島』と改むべく、徳治郎には『福元』の姓を名告らしめれた。
(『福元』の一族は後、当社の一老・宮座となり、代々伝えて明治維新に至り、今猶存続する言う。
) 時に、ウメの一木有るを御覧になった公は、 『行く水の中の小島の梅さかば、さぞ川浪も 香に匂ほらむ』と詠まれ、再び都に帰る事も測り難い故に、此の島に憩ひし遺蹟を作ると、梅の枝に松の枝を添えて一緒に刺し植えられた処、不思議にも一本となって根を下ろし、元禄十余年の風害に跡なくなる迄、永く葉を茂らせたと言う。
翌朝、別れを惜しむ里人等は、公の船に従って針間(播磨)の国までお供したが、太宰府に赴かれた公が二年後、延喜三年二月二十五日逝去せられた訃報をを風の便りに耳にし、その徳を慕う余り、かの梅松二枝の根を下せし所に、延喜七年十一月十五日、小祠を設けて公を祀った。
(即ち、当神社の創始である。
) 翌延喜八年一月十三日、相殿神として大国主命・事代主命を合わせて祀り、同年九月二十一日に盛大なる神事を行ったことが、以後毎年の秋祭の始めとされる。
(尚、九月二十一日は 後、明治に至り陽暦となって十月二十一日に改まり、年間最重儀の例大祭として戦後の今日も、特に神社本庁・大阪府神社本庁より献幣使の参向を得て祭儀が厳粛に執り行われる。
){従って当社の創始は、共に村上天皇の天歴年間の創始とされる京都北野天満宮及び大阪天満宮より、四十余年更に以前に遡る事になる。
}一条天皇の正暦四年十月十九日、勅使散位為理卿筑紫に赴かれる時、風待ちのいとまに祭神を菅公と聞かれて御酒を神前に献じ御拝せられし処、神霊感応して御尊顔自ずから紅を顕し給うたと伝えられ、此の故に『神酒天神』とも称し崇められた。
源平時代の寿永年間、平氏追討の源義経公此の島に暫く陣を張り時、戦勝の祈願を込めたことが、有名な逆櫓論議の処として附近に残る『逆櫓之松跡』と共に今日に伝えられている。
江戸時代末期の文政十三年十一月十日、不思議の霊夢にまかせ、一老・宮座に年番守護せられ来た公のの御自画の御神影は、上古の如く御本殿に鎮納せられて今日に至っている。
宝暦八年の御改築を経て、嘉永三年の御造営になる旧社殿は、明治四十二年七月三十一日所謂『北区の大火』(天満焼け)に炎上、御神体のみは漸く浦江八坂神社に遷し奉り得たが、旧記・宝物等の、当時まで伝え得た大部分も、この時灰燼に帰した。
然し乍ら、同年秋の大祭を間近に控える為、直ちに仮殿急造にかかり、同年十月十九日両神社総代供奉して御神体を遷し還し奉るを得た。
本建築の本殿竣成は、大正四年、拝殿以下一切は大正十年に竣工した。
今次大戦に、境内落下の焼夷弾十一発は不思議にも全段不発。
道路を隔てた一帯の民家を始め氏地の被災は被害甚大のものがあったが、神社の一角は事無きを得た。
昭和四十二年、幹線道路 『なにわ筋』 の拡幅に伴い、旧浄正橋筋に面する約一二〇坪を失い、境内狭隘となりし為、本殿その他の配置・結構も今日の如くになった。
後世、天満天神の、天神祭川渡御に先立ち『鉾流しの神事』が執り行われ、その木鉾の流れ着いた所がその年のお旅所となる事が行われたが、「福島天満宮」も、その「お旅所の一つであったのではないか」との説をたてる者があるが、『摂陽群談』に『天満神輿、この川を渡御の時、此の社に向ひ船中に於て、陣太鼓の鳴を静めて、神楽奉幣神拝あり』と記し、お供え物を献って遥拝すると言うことは。
御朱印(500円)をいただきました。
オリジナル御朱印帳(2,000円)があります。
天満宮共通柄(梅)に神社名です。
名前 |
福島天満宮 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
06-6451-5907 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.8 |
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学問の神様。
境内はとても静かな雰囲気です。