狭い道路を進むと突き当り左手に神社が二社見えてきま...
名神高速道路と養老垂井線が交差する箇所に社号標が立っていますが、そこから社殿は見えず、狭い道路を進むと突き当り左手に神社が二社見えてきます。
北側手前が御井神社で南側が春日神社です。
牧田川沿いの堤防からは境内全体を見渡すことができます。
同一境内に形の違う鳥居と小型の社号標が仲良く並び、参道がそれぞれの社殿に向かって平行に走る光景は斬新です。
御井神社は式内社で、遷座を重ねて春日神社の隣に落ち着いたそうです。
ちなみに約800m東の養老町金屋青少年集会所前に「右 御井神社 せきが原」と刻まれた道標があり、ここにかつて神社があったらしく、さらに約500m東にかつて鎮座していたことを示す「御井神社古址」碑が建っています。
主祭神は大国主神と八上比売との間に生まれた神・御井神(木俣神)だそうです。
名前 |
御井神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.7 |
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勧請年紀不詳。
延喜式神名帳曰く、美濃國多芸郡四座の内御井神社及美濃國神名帳十六座の内従五位下御井明神は当社なり。
旧笠松縣管轄美濃國式内神社考証曰く、御井神社多芸郡安久庄金屋村にあり。
渡辺信喜順拝表曰く、御井神社多芸郡金屋村。
今神明社に合せ祭る。
此社もと村の東七丁許四〇五と云へる地に在て往古は社家社坊等もありけるが、天正の頃兵火に罹りて悉く焼失し、その後僅かに存続するものも度々洪水に流失せるにより、正保の頃神明社に移せし由云傳ふ。
本村伊藤氏の所蔵旧記に曰く、一金屋村御井神社は四〇五井戸の傍井の上と申処に御坐候由。
式内正一位の宮に御坐候。
正応年中洪水にて流れ、天正年中兵火にて焼失、その頃迄は社家社坊も御坐候間、宮も二社御坐候。
出水毎に水下に相成候故、正保の頃神明へ移し、四〇五井戸は深四五〇間程も御坐候。
不思議なる井戸に御坐候。
今に宮跡と申すは井戸の傍らに御坐候。
御井神社多芸神社焼失同時に御坐候由申し傳へ候。
と記せり。
今も四〇五と云へる地には古井の存て如何なる旱魃にも涸るる事なく、此水今も盛に湧出て金屋村高450石余31町余の田面半は此井水の養を蒙れり。
其傍に宮跡と称して社地も少か存れり。
尚此辺を広く井の上井の道等称へて古い名寄帳にも其の字を数多記したり。
祭神は御名の如く御井神なるべし。
玉襷曰く、御井神は大國主神の御子にて御母を稲羽の八上比賣と申せり云々。
其御社は神名帳に出雲國、大和國、美濃國などに御井神社とてあまたあり。
神位は國帳内神名帳に従五位下とあり。
美濃國神名帳に曰く、多芸郡従五位下御井明神。
上に挙げたる伊藤氏の古帳に正一位とするは何れに拠りしや。
さて、此の村は牧田川に続きて古より水害遁れがたく、且つ又此の多芸、不破、石津の諸郡天正慶長の頃は悉く戦争の巷にて社地寺境何れも軍士屯所となり、度々の兵火に罹りし事何処の傳言も附合しければ、此の地もその頃同じく焼亡せし事疑ひなし。
尚その後も絶へ絶へ存れりしを正保の頃の洪水に又々流失せしにより、その後は再興の力もなく、神明社に併せ祭り、旧社地は耕地となりて、今は形のみ存れる事とはなりしなり。
以上旧笠松縣式社考証を挙ぐ。
末社御鍬神社明和四年創建。