堀切、竪堀♪で真下にバイパス?
馬谷城跡(要害山城跡) / / .
標高70m、比高約55m熊野街道兼林道沿いに説明板があった整備された階段を登ってくと大堀切♬とりあえず東の尾根に竪堀♪、堀切、竪堀♪で真下にバイパス😅大堀切横を登ると腰郭に切岸ドーン♪竪土塁♬も残ってるさらに登ると眺めの良い主郭下りると二曲輪そしてさらに下りると連続竪堀♪横堀♬を進むとモコモコの畝状竪堀群🙌この横堀ウネタテは残存度合いが高くて見応えある🤩結び目付きのロープが用意されてて草刈り整備もバッチリされてる👌スゴいとこだった\(◎o◎)/ワーイ
草堂寺の駐車場から熊野古道の案内に従って、寺から300m進んだ先に分岐点があり、左側の路を行きます。
その路を100mも行くと城址の説明板があり、谷を隔てた正面の山が城址であると書いてあります。
説明板から坂を下って行き、別の道路と合流して暫く行くと川を渡った右手が登城口です。
登城路を上がって行くと大きな堀切が現われ、その先に主郭があります。
主郭は東西に長い平坦地で、土塁はなさそうです。
主郭から北西方向に視界が開け、白浜方面が良く見えます。
主郭の西下にⅡ郭があり、ここには土塁が取り巻いています。
更にその下に畝状竪堀群が。
北側は熊笹に覆われて今一つ良く判らないのですが、南側のそれは規模も大きく、下草もあまり無く、横堀を伴った畝状竪堀の遺構でした。
それまで近畿地方であまり畝状竪堀の遺構を見た記憶が無く、非常に興奮して見て回りました。
駐車場から主郭まで25分。
(2012年登城)
名前 |
馬谷城跡(要害山城跡) |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.4 |
🔷歴史大辺路は富田坂から安居辻松峠を経由して安宅氏領内である田野井に通じる最短ルートであり、高瀬要害山城は富田荘南端に位置し、富田坂登り口を見下ろす位置に築かれている。
築城者は安宅氏家臣吉田春秀であり、生馬村(上富田町)を与えられこの地に城を築いたという。
この場所は安宅氏にとって山本氏との境目となり絶えず争いが繰り広げら、明応3年(1494年)10月に山本氏がこの城に来襲したが、これを退けている。
高瀬要害山城は安宅氏にとって山本氏の動向を常に監視する重要な拠点であるため、防御性が高い縄張りとなっている。
🔷現状高瀬要害山城は紀勢自動車道富田坂第二トンネルの直上にあり、国道42号線一目坂トンネルを過ぎて道を左に折れた山道から行くことが出来る。
麓の空地に車を停めて行そこから遊歩道が整備されている。
城跡は主曲輪を中心に東西に曲輪を配している。
主曲輪は東西25m、南北18mの規模で、防御の要である二ノ曲輪は南北27m、東西11mあり、土塁で囲まれ西側には虎口が開いている。
二ノ曲輪から斜面を下ると横堀と畝状竪堀群が計12本掘られ、富田坂より攻め込む敵を想定した構造である。
畝状竪堀群は戦国末期の技法であることから、天正13年(1585年)羽柴秀吉の紀州攻めに際し大規模な改修が行われたのであろう。
東側は三ノ曲輪と尾根を遮断する堀切が数か所あり、三ノ曲輪直下の堀切には投石用の川原石が大量に残されている。
白浜町教育委員会のよる発掘調査が行われ、二ノ曲輪からは当時の鍛冶炉跡や、古銭、備前焼の破片なども出土している。
要害山城は規模は大きくないが、遺構の保存状態および築城技法に優れた城跡である。