駐車場の恥に説明板と標識があるだけです。
真田戦記竹ヶ鼻城跡岐阜県羽島市竹鼻町2624岐阜県羽島市にある竹ヶ鼻城が築城されたのは、応仁年間(1467年-1469年)と言われています。
地理的な事もあって大勢力の争いの場となります。
天正12年(1584年)時の城主、不破広綱は羽柴軍に水攻めにあいます。
水は二の丸まで入り城内に立てこもる兵も筏を組んだりして対処しましたが開城しました。
慶長5年(1600)関ヶ原の前哨戦として、8月22日に東軍に攻められます。
城主杉浦五左衛門は織田秀信に属し戦いましたが戦力差は如何ともし難く降伏のすすめを拒絶して抗戦を続け、午後にはついに力尽き、城に火を放って自害しました。
城は廃城となります。
現在の城風の建物は、歴史民俗資料館・映画資料館です。
関ヶ原合戦ファンなら抑えておきたい城趾。
遺構等はないが所在地を知ると関ヶ原前哨戦の流れが見える。
合わせて大垣城と岐阜城もチェックですね。
竹ヶ鼻城(たけがはなじょう)は、尾張国葉栗郡、のち美濃国羽栗郡、現在の岐阜県羽島市竹鼻町にあった日本の城(平城)。
1586年(天正14年)の木曽川大氾濫によりその流路が南遷したことに伴い尾張国より美濃国に遷った。
それ以前の流路は現在の境川筋を流れ墨俣付近で長良川と合流していたと考えられている。
竹鼻城と表記されることもあり、竹鼻城跡として1955年(昭和30年)に羽島市の史跡に指定されている。
正確な位置は特定されていないが、丸の内地区に本丸があったと言われている。
逆川を外堀とした二重の堀を有していた。
当初は、市道と竹鼻線の踏み切り付近に城碑があったが、現在は上城町、下城町付近が城跡と推定され、歴史民俗資料館前に城碑を移した。
なお、北側の市道工事の際、地下から川原石の石垣が出土している。
位置関係からも竹鼻城の遺構の可能性も高い。
築城は竹腰尚隆によって応仁年間(1467年-1469年)に行われたとされている。
その後は土岐氏や斎藤氏に仕えた長井氏が入り、更に織田氏に支配権が移ったと考えられる。
1584年(天正12年)、織田信雄の配下の不破広綱が城主の時代に起きた小牧・長久手の戦いの際に、豊臣秀吉の水攻めに遭い落城(竹ヶ鼻城の水攻め)。
不破氏は落ちのび、秀吉の配下の一柳直末が入城した。
直末が大垣城主となると、池田恒興の配下の伊木忠次、次に森寺清右衛門が入城する。
後に不破氏はこの地に戻り、不破一色村に住む。
その次の織田秀信配下の杉浦重勝が城主の時代の慶長5年8月22日(1600年9月29日)、関ヶ原の戦いの前哨戦として福島正則によって攻囲され、二の丸、三の丸に詰めていた援軍の毛利広盛らが知己であった福島に降伏してしまったため落城、杉浦は自害した(竹ヶ鼻城の戦い)。
後、竹ヶ鼻城は廃城となる。
現在跡地は商店街や羽島市の歴史民俗資料館となっている。
立派な資料館と映画資料館?が建っています。
遺構は全然分かりません。
小牧・長久手や関ケ原の戦いで史料に出てくる城。
城跡は市街地となり遺構は見当たらない。
石碑の周りの木を手入れしてね。
住宅街の道路沿いに資料館があり駐車できますが、駐車場の恥に説明板と標識があるだけです。
資料館は多分お城の復元ではなく、昭和中期の映画の資料館だと思われます。
有料で入り口から覗いた感じがそうだったので、入りませんでしたが。
遺構等は残っていませんが、この地で水攻めが行われた事を想像しながら歩いてみるのも良いかと…
位置ははっきりしないが映画資料館の隅に石碑と説明看板ありきれいに整備されている。
有名な、秀吉の水攻めのあった城跡。
名前 |
竹ヶ鼻城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
2.9 |
城跡としては、説明板のみです。
ここの城は、小牧長久手の戦、関ケ原の戦の時に、2度攻められています。
小牧長久手の時は、秀吉に水攻めにされています。
大規模な堤を秀吉は作ったそうですが、そんなことまでしなくてはいけなかったのでしょうか?関ケ原の時は、福島勢をはじめ東軍に攻められ、1日にで陥落しているそうです。
地形から見ても、そんなに難攻不落にはみえませんが。
秀吉の趣味でしょうか?水攻め。