名前 |
津屋城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
津屋川西、集落にある本慶寺さんに位置。
説明板がありましたのでご紹介します。
-原文のまま-【津屋城跡】津屋城は、関ケ原合戦まで高木八郎左衛門正家が居住していたが。
慶長五年(1600)関ケ原合戦の時、石田三成方(西軍)に従ったため没落し廃城となった。
八郎左衛門正家は記録によれば、高須城主高木十郎左衛門の縁者であり、十郎左衛門は高須旧記によると、文禄元年〜慶長五年八月(1592〜1600)まで高須城主に在り豊臣秀吉の旗下と伝えられる。
現在は、慶長八年(1603)に当時の領主 徳永法印寿昌(高須城主)の許しを得て移された本慶寺となっている。
寺を中心とした付近一帯が城跡で、主郭部は境内にあるが付近は道路が通じた住宅が建ち、全容を明らかにすることはできない。
主郭は内堀と土塁に囲まれた区画内で、西北隅の一面(離屋敷地)が一の曲輪、それより一段低い平地(本堂庫裡敷地)が二の曲輪で南側内堀の外側に三の曲輪(畑地)があり、大手門があったと考察される。
堀は主郭を囲む内堀と、三の曲輪を内側とした外堀の二重堀で、西高東低の傾斜地の為、南・西・北の三方は空堀で東側は水堀とし、ことに外堀東側は津屋川を中心とした池沼となっている。
主郭の西側に屋敷、北側に西曲輪・台所曲輪が配され、東側虎口に一段低く大手曲輪があり、さらにその下段に屋敷・馬場などが川岬に配置されていたようである。
津屋城跡は、北勢地方に多く見られる「北勢四十八家衆」の城と、城地条件・縄張形式が全く相似しており、歴史的連繋がうかがわれる。
岐阜県では、希な中世平城遺構で、貴重な文化財といえる。
海津市教育委員会と、なっています。
素晴らしいですね。