関が原合戦の最後を飾る「島津の退き口」がここから始...
開戦地の駐車場に車を停めて、歩いて出かけました。
藪の中にある雰囲気のある場所です。
驚いたのは、鹿児島の子どもたちが毎年取り組んでいる関ケ原戦績踏破隊の記念碑です。
昭和35年から続いているそうで、本当にすごいことだと思います。
島津義弘陣地跡は、関ケ原の戦いにおける西軍の布陣地のほぼ中央部に位置しています。
現在は神明神社の森が広がっており、この神社の裏側には「小池・島津義弘陣所跡碑」があります。
島津義弘は、巧妙な鉄砲戦略で知られ、壕も掘らず、柵も作らず、鉄砲隊を交互に入れ替わり狙撃し、騎馬隊を撃ち落としていたそうです。
また、関ケ原の戦いでは「島津の退き口」として知られる決死の退却戦を行ったことでも有名です。
歴史の一端を感じることができる場所でした。
1600年9月15日の関ヶ原の戦いで西軍に所属して、笹尾山・石田三成陣跡より、南に約800m下った辺りが、「島津義弘陣跡」だといわれています。
現在は神明神社の森が広がっており、この神社の裏側には「小池・島津義弘陣所跡碑」があります。
ここは合戦時、西軍布陣地のほぼ中央部に位置します。
島津隊といえば、鉄砲を巧妙に使って戦ったことで有名です。
陣中では壕も掘らず、柵も作らず、鉄砲隊は交互に入れ替わり狙撃し、騎馬隊を撃ち落としていたそうです。
しかし、重臣の吉川広家が東軍に寄っていたたも、戦場は少しも動かなかったのです。
島津の退き口が有名です。
世にいう「捨て奸(すてがまり)」の戦法で、前方へと突き進む。
「捨て奸(すてがまり)」とは、本隊が退却する前に、小隊をその場に留まらせ、死ぬまで戦わせます。
つまり、捨て駒としての足止め作戦です。
小隊が全滅すれば、また違う小隊が死ぬまで戦います。
この足止めを何度も何度も繰り返して、大将を無事に逃げ切らせるという作戦です。
無事伊勢から堺まで逃げ切っています。
鹿児島県日置市の青少年で組織する「関ヶ原戦績踏破隊」が夏休みにここに集まり、堺まであるいています。
今までの生徒の名前が彫られた石碑が建ってます。
アクセスはJR関ケ原駅より北西に徒歩15分です。
今は木が生い茂り、陣跡と呼ぶにはあまりに静かです。
島津義弘と言えば世に言う「島津の退き口」が有名ですが、この地から東軍に突撃を敢行したとき、生きて薩摩に帰れる自信はあったのか定かではありません。
島津の退き口という有名な退却戦の起点になった陣跡です。
島津氏は敗軍となった西軍に属していましたが、合戦中は活動せず勝敗が明確になった後で、敵中中央突破にて戦場を脱し本国に帰ったという事で勇名を得ました。
その戦いぶりは凄まじい物であったと言います。
ただ個人的には戦場で精一杯戦って散っていった多数の武将・兵士の方が立派で尊敬できます。
合戦中は動かず自己の退却の際のみに死力を尽くすというのは、島津氏の陰険さが出たと言えます。
余談ですがその陰険さは幕末に最高の輝きを発しました。
ちなみにこの時点では島津家よりも徳川家の方がはるかに陰険です。
後の資料に石田三成の欠礼といった、なぜ島津氏が戦う気力を失ったかというエピソードが多数描かれていますが、生き残った者の都合の良い解釈だと思います。
陣跡は西軍の中央、要と言える位置です。
鬼島津こと、島津義弘の陣跡です。
西軍と東軍の戦いの最中にも動かず、西軍の敗戦濃厚になりいわゆる島津の退き口、敵に背を見せて逃げるは武士の恥、薩摩隼人にはありえないとの事で正面突破で退却。
捨て奸の戦法で甥の島津豊久、長寿院盛淳は死亡、大阪を経由し堺から船で薩摩に辿り着いた時には300いた兵は80名ばかりとの事。
関が原合戦の最後を飾る「島津の退き口」がここから始まったと思えば感慨深かったです。
徳川家康最後陣地までそれほど離れてはいませんでしたが、東軍が勝ち確で油断していたかもしれない、とはいえ敵中強行突破で駆け抜けるのはやっぱり島津は恐ろしいわと思うのです(幕末までずっとこの調子ですね)。
⭐️薩摩の「鬼島津」猛将/島津義弘⚔️上方にいた甥の島津豊久や少数の兵で着陣1000~1500ほど、西軍主力の石田三成隊や宇喜多秀家隊など西軍総崩れの中、少数の島津勢戦場に孤立❗️そして、正面東軍の敵中突破を決意、甥の島津豊久も討死し多大な犠牲を出しながらも、徳川方/井伊直政・松平忠吉・本多忠勝らの追撃を振り切り、伊勢街道南下し難波湊から立花宗茂らと海路で薩摩に帰還、僅か約80数名ほどが生還、世に有名な『島津の退き口』島津家の武名天下に🐎⭐️陣跡は神明神社裏手に、車は神社参道左側に専用の駐車場あり、陣跡近辺は道狭いので路駐不可😅
今は道も整備され、車でもすぐに分かりますが、以前は木が繁って、分かりにくかったです。
1時間ウォーキングでよく行きますが、あまり訪れる人はいないようです。
もっと行こうよ❗三成に恩義を感じて参戦してくれた武将ですよ‼️敵陣真ん中突破のうとう坂は、町民プールの横を通っていて、夏はよく場所を聞かれますが、「この道ですよ」と教えると、あまりに普通の道で、写真を撮るポイントもなく、意外な顔をされます😔
石田三成陣と小西・宇喜多陣に囲まれた神明神社の裏にひっそりと碑があります。
少し離れた所には鹿児島の島津義弘を慕う人達が整備した巨大な石碑が立ち、いかに魅力ある人物なのか肌で感じる事ができます。
その証拠に毎年、鹿児島の学生が退き口を踏破するのが行事として行われているようです。
陣跡から神社境内からは異様なオーラがあり、ここから島津勢が突如、突進してきた事を想像すると、徳川方はさそがし恐慌に陥ったのだろうと思います。
それを立て直し、追撃に移れたのはさすが歴戦の徳川勢というべきでしょう。
周りにある陣跡と比べると、小さく見つけづらい場所にありますが、そのどれよりも強い意志の力を感じるスポットとなっています。
集落内の細い小道を通るので、車では入りにくく、自転車か徒歩が良いでしょう。
その集落の方の生活の場でもありますので、すれ違った方に挨拶をし、静かに見せて頂き、来た時より綺麗にして帰るくらいの気構えで訪れるのが、礼儀かと思います。
島津家を躍進させた義弘は、人情味溢れる性格だったといわれています。
主従分け隔てなく下級の兵士と囲炉裏を囲み、自らの家族だけでなく、家臣に子どもが産まれると、自らの館に招き入れ祝福したといわれています。
敵方にも情け深く、朝鮮出兵の際に討ち取った相手を供養したそうです。
周囲の反対を押し切り、関ケ原合戦に西軍として参加したのも、三成に対する恩義によるものです。
義弘の人情深い性格が、数々の窮地に陥った島津家を救ったに違いありません。
「笹尾山・石田三成陣跡」より、南に約800m下った辺りが、「島津義弘陣跡」だといわれています。
現在は神明神社の森が広がっており、この神社の裏側には「小池・島津義弘陣所跡碑」があります。
ここは合戦時、西軍布陣地のほぼ中央部に位置します。
島津隊といえば、鉄砲を巧妙に使って戦ったことで有名です。
陣中では壕も掘らず、柵も作らず、鉄砲隊は交互に入れ替わり狙撃し、騎馬隊を撃ち落としていたそうです。
また、敵中突破の戦場離脱の話も有名ですが、それだけでなく、わずか800名程度ともいわれる少数部隊で、西軍を中央から援護していたという事実を踏まえて史跡を巡ると、陣跡の景色もまた違って見えてくるのではないでしょうか。
西軍の敗北が決まったとき、家康の直前を突破し、伊勢街道方面に撤退する。
「烏頭坂」にたどりついたとき手勢はわずか200名だったという。
敵中突破の陣跡。
見ても損はない。
関ヶ原合戦において島津義弘が布陣した場所です。
小池村の神社がある高台のこの場所で戦い、西軍敗北時には、ここから徳川本陣へ突き進み、後に「島津の退き口」と呼ばれる退却戦を行っています。
こちらには陣跡を示す石碑の他に、鹿児島県日置市の学生が島津撤退の道を辿る「関ヶ原戦跡踏破隊」の石碑もあります。
島津ファンとしてここに来れただけで感無量です。
島津奔るを読んでから義弘贔屓である。
関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。
しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。
その結果、この時点で300人まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。
この時、義弘は正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。
島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。
その際、旗指物、合印などを捨てて決死の覚悟を決意した。
年に一度は関ヶ原を訪れている、しがない歴史好きです。
陣跡はどこも、いつでも綺麗に手入れされています。
開戦地に駐車場があるので、そこに車を停めて付近を散歩することができますよ。
島津義弘の陣から小西行長、宇喜多秀家…、と順番に陣跡を散歩するのが私の年一の楽しみです。
他の陣跡と然程変わり無い印象。
申し訳ないが、口コミされてる方のレビューの方が、陣跡の解説より解りやすく、熱さが伝わってくる。
ですので、戦国ファンの期待にもう少し応えてあげられる、サービス趣向が有ればなと思った。
ま、個人的なエゴですみませんが…これからに期待。
島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。
戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主。
島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。
後に剃髪して惟新斎と号したため、惟新公(いしんこう)との敬称でも呼ばれた。
武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。
9月15日(10月21日)の関ヶ原の戦いでは、参陣こそしたものの、戦場で兵を動かそうとはしなかった。
関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。
しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。
その結果、この時点で300人まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。
この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、豊久の説得を受けて翻意し、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を島津軍は先陣を豊久、本陣を義弘という陣立で決死の覚悟で突撃を開始した。
このとき島津軍は捨て奸と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。
後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦もあり、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。
生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。
また、その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせている。
この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。
感動した❗でも今は周りが植林されていて陣営の大きさがわからなかった。
息子が気に入ってます。
関ヶ原の戦いで敵中突破して多大な犠牲を出して薩摩に戻った島津義弘の陣跡。
昔は鬱蒼とした雰囲気の中にあったが最近は道も整備され行きやすくなっている。
北国街道に沿って陣をとったとの事ですが、どの方向に陣取ったか、雑木林の位置から考えると東軍陣地と向かい合わなそうで、よく分かりません。
当時と地形が変わってしまったと考えるのが妥当と思えてきました。
島津さん、いけません、これはいけません。
せっかく三成が日本史上最大の戦いにおいて手柄をあげ放題の最高の場所をくれたのに何もしないんて!ここは手持ちの高度計で測ると家康の本陣より7メートルは高く見通しがきき、隣の友軍の宇喜多勢の場所より乾燥していて足場がいい。
しかも三成憎しの東軍が群れ集まってくる地点で、実際に前進してきた家康の本陣とは、たった400メートルしか離れておらず大将首も狙える位置でした。
義弘が「手柄をあげ、名を残すことこそが武士の本分」、と割り切っていれば歴史は変わったのかも。
島津義弘公の陣地跡、薩摩の旗が倒れて寂しそうです!開戦あとも一緒なので歩いて散策するには良い所、案内も親切にたっていますので迷わず行きつくことができます。
石田三成が陣を置いた笹尾山から南に歩くと,島津義弘の陣跡に着きます。
陣の背後には北陸に通じる北国街道が走っていたようです。
島津義弘の陣跡から南に進むと,同じく西軍の小西行長の陣跡に着き,そこから更に南西に進むと,天満山の宇喜多秀家の陣跡に着きます。
関ヶ原西南の松尾山に布陣した小早川隊,東南の南宮山に布陣した毛利隊と一緒に,平地に布陣する東軍諸隊を囲む形で布陣していたようです。
不本意ながらも西軍に付いた島津勢は,小早川隊の攻撃が引き金となって西軍が壊走し始めた中,押し寄せてくる東軍に正面から突撃して,関ヶ原東南の伊勢街道経由で離脱したそうです。
義弘が帰還した後の島津家は,戦後の和睦交渉でも一歩も引かず,本領安堵を勝ち取りました。
西軍が山間に布陣し,東軍が平地に布陣したからのなのか,西軍諸将の陣跡はひっそりと静まりかえった林や山の中にあり,東軍諸将の陣跡の周りには民家や小学校が建っていることが多かったです。
鬼島津こと島津義弘の陣所☺1500人という少ない兵数にも関わらず、敵中突破という離れ業をし戦場を離脱し薩摩に帰還☺さすがとしか言いようがない❗
島津退き口(的中突破)で有名な武将の陣跡。
井伊直政に深手を負わせたのはこの島津軍である。
神明神社の手前の駐車場から歩いて行きます。
寡兵でも強い島津のイメージを家康に植え付けた敵中突破であった。
神社の樹々が茂っており、見晴らしは悪い。
昔は違ったのだろう。
「鬼島津の敵中突破」で、天下に名を轟かせた島津維新!! 僅か三百(この数ホントかな…?)の寡兵で良くやった(°∀°)//ィェィ✧とされているが。トンズラ姿を誉められてもなぁ~武門の名折れだし…何か気の毒ですらある。
そもそも関ヶ原前、伏見城に鳥居元忠と共に、城を枕に討死!!だったはずが運命の綾で、西軍参加に。三成陣の(攻勢防御策の為かな?)脇備として此処に布陣した。コレではプライドが、傷付くよね。何か二軍落ち感、あり。西軍が攻勢に転じた時に、敵裏を切り裂いていく策だったのかなぁ? 出張る時期、良く分からないまま、檜舞台を与えられず、敗退濃厚となる…。益々プライドが許さない!「薩摩隼人ん戦、披露いたそ!」この戦場で義弘、豊久に五千程の島津精鋭軍を与えたなら、戦況違っていた!!と想えるだけに、残念無念さが石碑に滲むぞ。お家の事情もあったしねェ。中々辛いよね。「豊久どん! 突撃でごわす!!」🐎💨ド🐎💨ド🐎💨ッ―東軍を真一文字に斬り裂いて往く、疾風怒濤の陣あり。丸に十文字、鬼島津の兵ぞっ!!だけれども、西軍に加担したかどうかは可成り?疑?問?だなぁ。どうなんだろね?
「敵中突破」で有名な島津藩の陣営地。
すごい空気に包まれています。
敗色濃くなった頃に意を決して敵中突破を行い、命懸けの退却を行った島津軍の陣跡です。
関ヶ原の戦いで最も面白い場面のうちのひとつです。
関ヶ原古戦場跡の石碑の中で最も立派な石碑がここ島津義弘陣跡の石碑です。
鹿児島から同志を募り、寄付で石碑が建てられました。
今でも鹿児島から10歳前後の若者たちが、この地から大阪湾まで島津の退き口を再現すべく同じルートを通って歩いていくイベントを毎年行っており、参加者の名前はここにある石碑に刻まれています。
静かな場所アクセス道は狭く、車では分かりにくいと思う。
お隣の神社に無料駐車スペースがある。
近くに小西行長陣跡もある。
名前 |
島津義弘陣跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
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まさに松尾山の下の地。
義弘が激戦を眺めつつ静観をした地。
そして決死の退き戦を始めた地。
松尾山は結構人がいましたが、ここは誰もおらず。
私的にはこの古戦場巡りで最も気に入った場所なんですが。