特に歴史的に感心する要素が無いかな…
この塚!よく1000年近く残っているのが不思議❓前の道は袖ヶ浦公園から市原市立野に続く鎌倉街道です!1180年頼朝が石橋山の戦いで敗れ、安房に上陸!ここに塚をつくり、塚の上から兵士達を観閲したのでこの名がついた!この先に万騎坂がある?富津市の百坂→三百騎坂→木更津市の千騎坂を通り、頼朝軍が1万騎を越えた坂です! バンザイ!🙌歴史の道100撰の鎌倉街道だから、袖ヶ浦市郷土博物館で地図はないかと聞いてみた、なかった!説明板は多少あったが、良くわからず?万騎坂を探すのに苦労!表示板をつくって欲しい! 暇人のために?
治承4年(1180)石橋山の戦いに破れた源頼朝は海路安房に逃れ、その後再度挙兵し鎌倉を目指し深城の塚のあたりにやってきた。
途中、頼朝に従う武士が増えていき、頼朝にも人数が把握できなくなっていた。
そこで、閲兵の際に、この塚の周辺に碁盤目のように掘られていた穴に10人ずつ入れて、塚の上から穴を数え全軍の掌握を図った。
その故事にちなみ「御所覧塚」と呼ぶようになった。
昭和初期あたりまで、碁盤目の穴があった。
(青柳至彦『いちはら 歴史の散歩道』市原市農業協同組合、平成24年10月、pp131)周辺の地名に「鎌倉街道」が散在する。
袖ヶ浦市野田字鎌倉街道 袖ヶ浦市蔵波字鎌倉街道 袖ヶ浦市川原井字鎌倉通 市原市中高根字大街道 市原市立野字鎌倉街道「鎌倉街道」という名称は、鎌倉時代にはなく「大道」と言われ、後年その道を「鎌倉街道」と呼称するようになった。
多くの枝道があり、東国吉にも鎌倉街道が遺る。
現存の塚は新しく、旧塚はおそらく数メートル西に立っている杭の辺りにあったのであろう。
塚のイメージとしては、茂原街道に遺る塚に近いものであったか。
御所覧塚から東に伸びる鎌倉街道は、どこに接続するのであろうか?風戸の日光寺―馬乗馬頭観音の道に繋がっていたのではないか? ゴルフ場建設により尾根道が消滅しているが、馬乗馬頭観音が遺っていることからも、風戸に道が通っていたと考えられる。
日光寺の丘の上から風戸の里に至る道があったのであろう。
当時の馬は、自重300kg程度。
蹄の形から坂に弱い。
丘の上から現大多喜街道まで馬を引いて行軍するのであれば、風戸から丘の麓の道を通り手綱川(現養老川、手綱川は頼朝に因む命名)を渡り、街道へ向かったのではないか?
歴史を感じる!もっと大切にしてほしい。
史跡としては余り大事にされて居ない様ですね😒
畑の中。
草生い茂る。
周り何もなし。
特に歴史的に感心する要素が無いかな…
ほんとかな?
御所覧塚は言い伝えでは治承四年(1180)に源頼朝が平家打倒のため上総を通過した際に、この塚を築かせ塚上で武士達を閲兵したといわれています。
またこの塚の前を通る道は鎌倉街道と呼ばれ古代には都と上総地方を、中世には鎌倉とを結ぶ重要な道路でありました。
平成6年3月 市原市教育委員会。
名前 |
御所覧塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
標識のみで説明等何もない、案内板位欲しかったです。