小川城跡明応元年(1492年)沼田景久によって築か...
みなかみ町月夜野に存在する沼田氏関連の城跡のようです。
沼田城の西を守る役割を担ったようで、越後上杉、小田原北条、甲斐武田氏による三つ巴の戦いに上野(現在の群馬県)が巻き込まれた際、城主であった小川可遊斎は情勢を見極める観察眼と才覚に優れており、巧みに小川城を本拠地に活躍したそうです。
コンパクトながら空堀など遺構の状態も良好でしたので訪れて良かったと感じました。
付近には上越新幹線上毛高原駅のみなので、訪れる際は車やバスなどを利用したほうがよいかもしれません。
小川城を訪れた際は近くにある嶽林寺さんも合わせて訪問するのがおすすめです!小川可遊斎を顕彰されていらっしゃいます。
2018/4/1道路から見下ろした主郭周辺の土のうねりは圧巻。
この空堀を張るのは相当の労力が必要だっとと思う。
主郭周りの堀底道は最高だ!名胡桃城、明徳寺城とこの小川城は必見である。
190525登城よく手入れされているが、二の丸跡が実質田んぼだったり遺構としては本丸跡の空堀ぐらいか? 駐車スペースは無く路駐せざるを得ないがほとんど車も通らないので支障ないかと。
小さな城跡なので30分もかからず見学できます。
上毛高原駅からすぐ。
トイレは済ましてから来た方がいい。
小川城跡明応元年(1492年)沼田景久によって築かれたと云われる。
景久は沼田城の西の備えとして築き、二男景秋を城主として入部させ景秋は小川を称した。
2代景祐は素行優れず追放され、弟秀泰が3代城主となった。
秀泰は岡林斎と名乗り沼田七騎の一人として名を馳せた。
秀泰の子景奥が4代城主となると、次第に小田原北条氏が進出、幾度の戦火で景奥の子は幼くして焼死、景奥も大永4年(1524年)落命、これにより跡目を嗣ぐものがなく、城をめぐって北能登守、南将監が不和となる。
そのころ赤松則村の末で赤松捨五郎祐正と名乗る浪人が上方より下って城内に留まるうち、信頼を得て小川可遊斎と名乗り小川家の名跡をついだ。
天正8年(1580年)小田原北条氏と戦いこれを退けた。
しかし、北条氏は再び大軍を派遣し小川城を取り囲み、可遊斎は降伏を願い出るも許されず、越後へ逃亡した。
小川城は上毛高原駅の東にあり、利根川による河岸段丘の東端に築かれている。
現在残るのは本丸部分で、かつて西側には二ノ丸が存在していたが、現在はほとんど遺構がない。
本丸は深い空堀によって台地から切り離される構造で、崖端城の典型的な遺構あである。
近くの名胡桃城と同様に先端部分には笹曲輪と呼ばれる小さな曲輪がある。
西の山側にある嶽林寺は小川氏を開基とするお寺で、ここに小川城資料室があり小川氏に関する展示がある。
また味城山の砦は小川城の詰城とされる。
新幹線の上毛高原駅から徒歩7
道路のすぐ脇に本丸と二の丸を区切る空堀があり、その空堀がこの城の最大の見所です。
空堀の先がすぐ本丸で更に奥に進んだ先に一段下がった曲輪があってその先は恐ろしいほどの崖です。
崖の下は利根川なんですが、河岸段丘に築かれた城である事がよくわかります。
砦城のためいわゆる史跡であり遺構はあまりないが、沼田八騎の一人、小川河内守の所領であり国主の沼田氏にとっても重要な地でもあった。
小川城は、西暦1492年(明応元年)に、沼田景久の二男景秋が築城したと伝えられています。
江戸初期までは存続していましたが、やがて廃城となりました。
名前 |
小川城跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.5 |
道路からすぐに行ける城跡です。
本丸と二の丸は道路で分断されていますが、堀切が状態が良く見事です。
城跡の規模は小さいですが保存状態が良く30分掛からず散策出来ます。