沼田景久の二男景秋が築城したと伝えられています。
本丸と堀が残っています。
保存会の方達のおかけで散策しやすいです。
城攻め初日、沼田、名胡桃に続いて、みなかみ町にある小川城に行きました。
小川城は沼田景久が沼田城の西の備えとして築いた城と言われています。
国道291号を上毛高原駅訪問に走行していくと確認することができます。
国道沿いに駐車スペースっぽい空間がありますので、車でのアクセスが良いと思います。
お城の解説によると、国道を隔てて、東側に遺構が残っており、西側の民家の方は二の丸があったようです。
想像以上に広範囲な城であったと推測できます。
本丸部分は公園化されていますが、夏場のせいか雑草が多くハチなども居そうでしたのでご注意を。
城跡では、土塁・空堀などの遺構を確認することができます。
小川城の御城印は、城跡からすぐ、上毛高原駅前にあるみなかみ町観光協会で入手することができます。
上毛高原駅前の駐車場では意外にも利用車が多かったので駐車できませんでした。
2024/7/26(金) 1300-1310 城散策。
沼田氏が室町時代に築城したとある。
戦国時代には越後上杉氏(長尾氏)の関東出兵や武田氏の上野攻略でも利用されたとあり、戦略上の要所であったと思われる。
また、沼田真田氏にも縁がある。
本丸と空堀が残り、保存会の方々により維持管理がなされている。
道路からすぐに行ける城跡です。
本丸と二の丸は道路で分断されていますが、堀切が状態が良く見事です。
城跡の規模は小さいですが保存状態が良く30分掛からず散策出来ます。
みなかみ町月夜野に存在する沼田氏関連の城跡のようです。
沼田城の西を守る役割を担ったようで、越後上杉、小田原北条、甲斐武田氏による三つ巴の戦いに上野(現在の群馬県)が巻き込まれた際、城主であった小川可遊斎は情勢を見極める観察眼と才覚に優れており、巧みに小川城を本拠地に活躍したそうです。
コンパクトながら空堀など遺構の状態も良好でしたので訪れて良かったと感じました。
付近には上越新幹線上毛高原駅のみなので、訪れる際は車やバスなどを利用したほうがよいかもしれません。
小川城を訪れた際は近くにある嶽林寺さんも合わせて訪問するのがおすすめです!小川可遊斎を顕彰されていらっしゃいます。
小規模な城ですが本丸付近の遺構は良く残っています。
道路沿い(二ノ丸跡)から本丸跡に行くために通る堀は意外に深く見ごたえがあります。
本丸跡、ささ曲輪跡は土塁に囲まれています。
道路の反対側にも遺構はわかりませんが指標がいろいろあります。
畑のあぜ道とかなので入る場合は注意しましょう。
2018/4/1道路から見下ろした主郭周辺の土のうねりは圧巻。
この空堀を張るのは相当の労力が必要だっとと思う。
主郭周りの堀底道は最高だ!名胡桃城、明徳寺城とこの小川城は必見である。
190525登城よく手入れされているが、二の丸跡が実質田んぼだったり遺構としては本丸跡の空堀ぐらいか? 駐車スペースは無く路駐せざるを得ないがほとんど車も通らないので支障ないかと。
小さな城跡なので30分もかからず見学できます。
上毛高原駅からすぐ。
トイレは済ましてから来た方がいい。
小川城跡明応元年(1492年)沼田景久によって築かれたと云われる。
景久は沼田城の西の備えとして築き、二男景秋を城主として入部させ景秋は小川を称した。
2代景祐は素行優れず追放され、弟秀泰が3代城主となった。
秀泰は岡林斎と名乗り沼田七騎の一人として名を馳せた。
秀泰の子景奥が4代城主となると、次第に小田原北条氏が進出、幾度の戦火で景奥の子は幼くして焼死、景奥も大永4年(1524年)落命、これにより跡目を嗣ぐものがなく、城をめぐって北能登守、南将監が不和となる。
そのころ赤松則村の末で赤松捨五郎祐正と名乗る浪人が上方より下って城内に留まるうち、信頼を得て小川可遊斎と名乗り小川家の名跡をついだ。
天正8年(1580年)小田原北条氏と戦いこれを退けた。
しかし、北条氏は再び大軍を派遣し小川城を取り囲み、可遊斎は降伏を願い出るも許されず、越後へ逃亡した。
小川城は上毛高原駅の東にあり、利根川による河岸段丘の東端に築かれている。
現在残るのは本丸部分で、かつて西側には二ノ丸が存在していたが、現在はほとんど遺構がない。
本丸は深い空堀によって台地から切り離される構造で、崖端城の典型的な遺構あである。
近くの名胡桃城と同様に先端部分には笹曲輪と呼ばれる小さな曲輪がある。
西の山側にある嶽林寺は小川氏を開基とするお寺で、ここに小川城資料室があり小川氏に関する展示がある。
また味城山の砦は小川城の詰城とされる。
新幹線の上毛高原駅から徒歩7
道路のすぐ脇に本丸と二の丸を区切る空堀があり、その空堀がこの城の最大の見所です。
空堀の先がすぐ本丸で更に奥に進んだ先に一段下がった曲輪があってその先は恐ろしいほどの崖です。
崖の下は利根川なんですが、河岸段丘に築かれた城である事がよくわかります。
砦城のためいわゆる史跡であり遺構はあまりないが、沼田八騎の一人、小川河内守の所領であり国主の沼田氏にとっても重要な地でもあった。
小川城は、西暦1492年(明応元年)に、沼田景久の二男景秋が築城したと伝えられています。
江戸初期までは存続していましたが、やがて廃城となりました。
名前 |
小川城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
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小川城は明応7年(1498)に国人領主の沼田景久の子・小川景秋に築城されました。
永禄3年(1560)8月下旬から越後国主・長尾景虎(後の上杉謙信)の関東進攻が始まり上野国(群馬県)を景虎は制圧しました。
この時の景虎の関東進攻に参加した武士の陣幕の紋を記載した「関東幕注文」の中に沼田顕泰の次に「小川 同紋 親類同」とあり、沼田一族の中に小川氏がいたことがわかります。
小川景秋の子・秀泰は家臣の赤松孫五郎を養子にして後継者とし「小川可遊斉(かゆうさい)」と名乗り上杉謙信に従属しました。
天正6年(1578)3月13日、上杉謙信が越後国春日山城(新潟県上越市)で死去すると、小川可遊斉は上野国に進出した相模国(神奈川県)の戦国大名・北条氏政に、天正7年(1579)には武田勝頼の家臣・真田昌幸に従いました。
この時氏政の弟・北条氏邦と北条家臣・猪俣邦憲は大軍で小川城と名胡桃城を攻撃しましたが、落城しませんでした。
天正8年(1580)、真田昌幸と決裂した小川可遊斉は越後国へ逃亡し上杉景勝につかえました。
天正17年(1589)、関白・豊臣秀吉は北条氏政・氏直父子と真田昌幸の領地を裁定し、名胡桃城は真田昌幸、小川城と沼田城は北条氏政の領地にすると線引きしましたが、天正18年(1590)年、豊臣秀吉が小田原北条氏を滅亡させ関東地方を平定した際に小川城は廃城になりました。