来年の夏にまた行きたいです✨
素敵なおみくじのある神社です。
道路沿いにありアクセス良好です。
神域内は広く清潔に管理されています。
社務所にも目を引かれます。
うさぎの張り子おみくじがありました。
他にも可愛らしい張り子おみくじがあります。
これは他のところでも真似してほしい。
機会つくってまた来訪したいです。
鎮守の森は杉、欅の大木が数知れず繁り広大。
社殿は南向きに鎮座。
南側にある鳥居から、石畳の長い参道を進み、神門をくぐると両側にイチョウの大木が聳えている。
社殿の彫刻も見事。
石畳がいい味を出していて、行ったり来たりしたくなるが、つまずかないように御用心…。
群馬県北西部、吾妻郡中之条町に鎮座してます。
明治の神社合併以前は(和利宮)として親しまれてきましたが2度の神社の合併を経て社名を変更 吾妻の総鎮守として多くの崇敬を集めています。
水上~ロックハート城~榛名湖方面ヘ走行 ふと見ると大きそうな神社 あ❗駐車場通り過ぎちゃった😅いつもなら次来た時にお参りってなるが気になりUターン 駐車場あり 戻って来てよかった すごくいい雰囲気👍️社務所あり👍️あ❗御朱印ある☺️神門に菊が飾られて綺麗 境内 イチョウかな 一面黄色👍️ 拝殿で参拝 一瞬すごく風が強くなりでも心地よい風 歓迎されたのかすごくいい参拝でした。
社務所に人がいたのもラッキー 不在の時もあるみたいです。
結構いい雰囲気の神社さんでした 近くに行ったら参拝してみてはオススメ👍️
国道145号線沿いに御座います吾妻神社です。
私も妹も母の里帰り出産で出生地は中之条町の為、昔から何かと(厄除けなど)お世話になっております。
駐車場から鳥居をくぐり参道を進むと右手に手水舎、正面に赤い屋根の神門。
神門をくぐると社殿のある広くて大きな境内。
境内左手に参集殿があり、右手に額殿、神楽殿が御座います。
拝殿は銅板葺き入母屋造妻入で、後方の本殿は流造です。
大穴牟遅神(おおなむちのかみ)を祀ることから「縁結び・恋愛成就」「子宝祈願・子授かり」「夫婦円満・家庭円満」「商売繁盛」「五穀豊穣」「金運上昇」等の御利益があるとされます。
伝承によると創建は上古の時代(大和時代から大化の改新頃)、当初は和利宮と称し御手洗山の山頂付近(現在の伊勢町)に鎮座していたと伝えられます。
拝殿のみがあった遥拝所でしたが参拝が不便であったため本殿を現社地に遷座させた経緯が御座います。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され周辺町内の多くの産土神(151柱)を合祀した事で吾妻神社に改称し、昭和3年(1928年)には郷社に昇格致しました。
さて、気になる本年のおみくじは…中吉・・・!でしたが書かれております内容は大吉と言わんばかりでしたので大切にお財布に入れておきます!
初詣で夢叶いのお守りを購入したら、昔からの夢だった板谷駅で銀色の新幹線つばさ号を見るというお願いが本当に叶いそうなのでここはかなりのご利益がある神社だと思います!
何度も前を通り過ぎて気になってました。
広大な鎮守の森の中の神社、人気ないので独り占め出来ます。
境内はよく清められていて綺麗なので、神様に対峙出来る感じがします。
境内に入ったら何かに服を引っ張られた感覚がした。
自分が行ったときは境内に一人で風が心地よっかた。
おみくじを木に結ぶのは何かの伝統なのかなぁ…。
吾妻神社のかつての石鳥居の礎石は、中之条にかつてあった小城の門の礎石を用いたもので、元禄年間に小城村(只則)の人々が碑をたて由来を記したそうです。
参道の改修により碑は破壊され今ではその碑を復元した碑が残ります。
小城は真田氏と北条氏方の白井長尾氏が争奪を繰り返した地で今では遺構はほとんど残っていませんが、この礎石がかつての城の名残を知るものです。
神門は天井に天女、鳳凰、龍(?)が描かれており、仁王が立っていた場所を考えると神宮寺の形式をとっていたのかもしれません。
神道集に書かれた子持山の逸話に登場することから平安、鎌倉時代にさかのぼる由緒正しい地です。
お一日、15日の早朝に伺うと、拝殿が開けられ、朝のお勤め中の参拝が出来ました。
公開しているわけではないのでしょうが、厳かな祝詞の響く中の参拝に感激しました。
また、秋の銀杏は、息を飲むほど見事です。
国道145号線沿いに鎮座。
入口の大鳥居は雰囲気あります。
参拝した日は午前中は留守で午後電話で在宅を確認して社務所っ直書き頂きました。
¥300
街道沿いで広い敷地の、とても雰囲気の良い、しっとり落ち着いた神社です。
駐車場もあり、お年寄りでも参拝しやすいであろう平面?上り下りのない所です。
参拝後に御朱印を頂こうと社務所を覗きましたが、人の姿がなく諦めかけていたところ、隣の家から宮司さんが「御朱印ですか?」と来て下さいました。
とても有難かったです。
そして最後に「また是非お越し下さい」と言って下さいました。
今まで他の神社では言われたことがなかったので、嬉しかったし感動してしまいました。
是非また来させて頂きます🙏
2019年11月23日(新嘗祭)の画像です。
吾妻七社明神の一社です。
神門を潜ると開けた敷地内に拝殿や神楽殿などがあります。
天気が良いと参道に差し込む木漏れ日が綺麗です。
境内は空気が澄んでいて、心地良い風が吹いていました。
風の通りが心地いいです。
国道145号線を西走していて神社を見つけました。
後で調べて観ましたら『中之条町』に在るだけで『吾妻神社』が三つ在ります。
他にも群馬県下のみならず、千葉、埼玉、神奈川ほぼ全国各地に在ります。
名前の『吾妻』は『日本武尊・ヤマトタケルノミコト』の海難神話に由来します。
荒れた海を鎮める為『人身御供』として自ら海の底に沈んだ奥さんを偲び『あぁ、吾が妻』と叫んだ処が『吾妻』と云う地名になったとか。
諸説、諸地域に逸話が残り、出船した『三浦半島・観音崎』には『走水神社』が在ったり、奥さんの着ていた『服の袖』が上がった浜は『袖ヶ浦』、『神奈川県・二宮町』には奥さんを偲び建立したとされる『吾妻神社』などなど。
『中之条町・吾妻神社』は神社庁の見解では郷社となっています。
早い話、良くわからん。
自分で調べてみてください。
特筆すべきは拝殿の各柱に在る『獅子頭』こんな造りは観た事ない。
風情のある神社ですが、お守り売場から御朱印を頼もうと声をかけましたが誰も出てこず。
ちょうど家から出て来られた方に挨拶しましたが、スルーされてしまい、御朱印はいただけませんでした。
イヤな思い出になりました。
大きな御神木に囲まれた静かな神社。
小雨の降る中でしたが風情があってよかったです。
御祭神 大穴牟遅命合祀神菅原道真 大山祇命 火産霊命 速須佐之男命 天照皇大神 大日霊命 軻遇突知命 豊宇気姫命 豊受大神 宇気母智神 宇迦之御魂神 大物主命 日本武尊 埴山比売命 市杵嶋姫命 別雷神 速玉男命 伊弉冉命 事解男命 建御名方命 八坂刀売命 経津主命 天之御中主尊 木花開邪姫命 橘姫命 武甕槌命 麓山祇命 及び祭神不詳26座由緒創祀年代は不詳。
一説には奈良時代初期の和銅年間(708年-715年)の創祀とも伝えられますが、江戸時代後期の文化年間(1804年-1818年)の火災で社殿・古記録が焼失してしまいました。
古来、国司、武将の尊崇を集め、吾妻郡全郡に及び崇敬され、吾妻大社とも称しました。
もとは現社地の西南300メートルほどの御洗水山頂に鎮座していました。
当地を支配していた塩谷氏が篤く信仰していた戦国時代の弘治2年(1556年)、現在地は拝殿のみの遥拝所でしたが、参拝が不便だったため、本殿を現在地に遷座しました。
なお、旧地に関しては、当社西北、標高789メートルの霊峰嵩山(たけやま)の南麓の地で、現在は親都神社が鎮座しています。
通称は、和利宮(わりのみや)。
もとは和流宮で、唐流に対する大和流の意味で、そのため当社の主祭神は大穴牟遅命だといいます。
安土桃山時代の天正18年(1590年)の古記録には割宮、江戸時代前期の貞享3年(1686年)の古記録には和利宮とあります。
ただし、和利宮の語源は、和利嶽(わりのたけ)と呼ばれた嵩山との関連深さによるという説もあります。
また和理大明神が語源ともいわれています。
当社は児持山七社、あるいは吾妻七社明神と称される神社の一つ。
『神道集』の「児持山大明神の事」には、児持山大明神の縁起が記されており、当社は、児持御前(児持山大明神)の夫である加若次郎和理が神となったものです。
文化4年(1807年)4月1日に社殿が造営されました。
文化9年(1812年)4月19日火災があり、造営5年にして焼失したことになります。
文政4年(1821年)、再建されました。
明治維新後、村社6社、無格社18社、境内末社127社、計151社を合祀し、現社号に改称、昭和3年(1928年)には郷社に列しました。
合祀神の中には、無格社で吾妻郡高山村尻高に鎮座していた山代神社(大山祇命)が含まれています。
この山代神社も、吾妻七社明神の一つです。
拝殿をはじめ、境内の献額に、天保9年(1838年)の絵馬・文政6年(1823年)の句額・明治11年(1878年)の算額があり、町の重要文化財に指定されています。
他に境内には、参集殿・神楽殿があり、石祠の末社がいくつか祀られ、町重文篁庵(高橋景作)追遠碑などの石碑や、忠魂碑があります。
(神社と古事記より)歴史はゆかし和利宮元郷社で社殿の彫刻が素晴らしい。
天保8(1837)年の絵馬、文政6(1823)年の句額(近郷の俳人達の肖像画)、明治11(1878)年の算額等が奉納されており、化政期の俳人動向を知る貴重な資料です。
大字横尾に鎮座するこの社は、もと和利宮と呼ばれる郡内の大社で、昭和 3(1928)年に郷社に昇格しました。
和利宮は、和利嶽と呼ばれた嵩山と関連深い社です。
南北朝時代に成立した『神道集』の中に「上野国子持山之事」という一節があり、子持山大明神を中心に吾妻の神々の縁起が記されています。
伊勢国阿野津の長者阿野保明は、伊勢神宮子守明神に参詣して得た娘に、子持御前と名付けました。
成人して加若次郎和利と結婚し、二人で伊勢神宮にお礼参りに行きました。
これをかいま見た伊勢国司は横恋慕し、夫の加若和利を謀反人として下野国へ流刑にしました。
子持御前は夫を救うため東国に下り、熱田・諏訪大明神の助力を得て救出、和利の伯父・藤原成次のいる上野国山代荘(吾妻郡)で再会しました。
このあと、諏訪大明神から神道の法を授けられて、関係者は神としてまつられ、子持山(子持御前)・嵩山(夫の和利)・鳥頭宮(若君)・山代明神(伯父・藤原成次)・中山の半手本明神(供の女房)・青山の駒形明神(若君を乗せてきた馬)・市城の白専馬明神(馬を引く供の人)となりました。
これらの神々は、『吾妻七社明神』と呼ばれています。
この中心が和利獄と呼ばれる嵩山の神で、山頂に奥宮、ふもとに親都神社があります。
里宮の和利宮は、嵩山の神を信仰する有力な豪族塩谷氏により、戦国時代の弘治2(1556)年、御手洗山(みたらしやま:現在の伊勢町)から現在地の横尾に移されたと伝えられています。
(「中之条町観光協会公式サイト」より)
穏やかですっきりした空気が感じられました。
確かに手水舎にお水がありませんでしたので、もう少しキチンとして差し上げてほしいです。
手水舎には柄杓も無く非常に寂れた印象を受けました。
あまり手入れされてない。
手水舎に水もな~い。
社務所は誰もいな~い。
お陰様で第一志望の学校に合格することができました。
見ごたえのある良い神社でした。
名前 |
吾妻神社(和利宮) |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
0279-75-1498 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.0 |
周辺のオススメ

他の方のクチコミを見ると賑やかな行事が行われている様で、来年の夏にまた行きたいです✨