遺構も良く残っていたと思います。
県道23号線を佐文に向かって走っていると左側に史跡麻城跡の看板が見えます。
そこを左側に入り少し坂を登ると小さな麻城跡の看板があり、そこに乗用車を置き、左側(西側)に進みます。
この後は徒歩の方が無難です。
(道は狭いし、竹の落葉で滑ります。
駐車する場所も有りません。
)当城は戦国時代、麻の城主近藤出羽守国久の詰城であります。
馬の背状の山の頂上(標高168m)を天守とし東側に階段状に下がる六段の郭を梯子状に配し、その前後に外郭と出郭を持つ縄張りに成っています。
また外郭と内郭の間には空堀等の防御も造られています。
天守に立つと西側は二宮、勝間から麻への街道を見渡せますし東には大麻山、善通寺我拝師山、南側は阿讃の峰々北側は朝日山が見渡せる重要な拠点です。
近藤出羽守国久は獅子ケ鼻城主大平伊賀守国祐の弟で天霧城主香川氏に属していました。
天正六年に長宗我部元親軍の侵攻で本篠城落城後に麻城も攻められ壮絶な戦いの後に落城、国久も討死(おじが谷に転落し死亡)しました。
麻城跡に行く途中は竹藪を通り薄暗くて不安に成りますが、城跡に着くと草木を刈り大変良好な城跡を見学出来ました。
兵どもが夢の跡と古の武将達の事を考え深く思いました。
県道23号沿いにある看板に書かれた道から入っていきました。
何故かヤギらしき動物が二頭も畑でのんびりしてるのに見入りつつ。
歩いて登ったけど、もう一つ先の道標まで大きく膨らんだスペースが何カ所かあって、ここまで車でもいけたのかな。
竹林の道をのんびり歩いていくと、こじんまりとしていながらも、山城を感じさせる場所が数々見れて興味深いひとときを過ごせました。
手入れ不足が残念(香川県三豊市👈城再建を求む)池内教授詳しすぎ🌠細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。
清和源氏の名門足利氏の支流。
名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来するの重臣の讃岐近藤家の城近藤国久の父親・大平国雅や兄・大平国祐の治めた領地土佐国高岡郡・吾川郡の南部。
古老伝えて云う。
藤原秀郷の裔にして東鑑謂う所の蓮池権頭家綱の後なり。
高岡郡蓮池城に居し蓮池、高岡、大内(おうち)、波介(はげ)、北地、出間(いづま)、甲原(かんばら)、塚地、用石(もちいし)、新居、宇佐、龍、猪尻(いのしり、現・高知県土佐市宇佐町井尻)、浦の内、才畑(さいばた、現・同高知市春野町西畑)、仁野、木塚(現・同高知市春野町西分長谷)凡そ十七村16190石を領し伝える事十三世、四百二十年を歴す。
「土佐遺語」谷泰山。
(一石👈米で180キロ)大平国祐と双子だった事から讃岐に養子に(本家の近藤家に)男性が少なかった双子は、家を2つに裂くと迷信で信じられていた。
先祖が、麻城落城後、農民となり江戸時代は上麻、下麻、増原、大麻村等の大庄屋をしていたと聞いています。
今度、麻城跡を訪ねたいと思います。
--千葉から訪ねたのですが台風のためか竹は倒れ、道をふさぎ、クモの巣が遮り、麻城跡の説明看板までたどり着くのがやっとでした。
写真の場所が確認出来なくて残念でした。
写真とは程遠いひどい状況でした。
早急に手入れの程お願いします。
三豊市観光課職員様?、宜しくお願いします🙇⤵️
竹林の中にこの城跡があります。
折角なのだからもう少し手入れして欲しいと思います。
遺構はかなり残っているだけに残念です。
源頼朝の重臣の近藤国平の子で国盛の子孫近藤国久の居城長宗我部元親の兵に攻め落とされた戦国時代には、800人の近藤勢が詰めていたが長宗我部勢の数千と勇敢に戦った城主の国久は、崖から足を滑らせて亡くなった、長宗我部の兵に追い詰められたと伝わる。
名前 |
麻城址 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
遺構も良く残っていたと思います。
ただ場所がちょっとわかりにくかったです。