観民というのは古の地名だったようです。
住宅地の中にある、緑に囲まれた神社。
末社も本堂の廻りにあります。
手水舎には水はありません。
御朱印は前橋東照宮で書き置きが頂けます。
通り過ぎただけ。
旧前工の東側にある神社。
前橋城主酒井重忠が、城下の用水「風呂川」を引いたとき、その守護として作った神社だという。
神社は利根川の崖線の上にあり、神社の横を流れる風呂川もその崖線の最も標高の高い場所を通っている。
拝殿は大きめの箱棟を載せた入母屋造の建築。
いかにも関東の田舎の神社という感じがいい。
本殿の北側には小さな塚がある。
これは京都の貴船から勧進した水天宮で、利根川の水難よけだという。
御祭神 食稲魂命境内末社 厳島社 琴平宮 菅原社 秋葉社創建 慶長六年(1601年)(「神社明細表(明治十年)」より)前橋城主酒井重忠が、城下の用水「風呂川」を引いたとき、その守護として作った神社です。
かつてこのあたりには、前橋城主のための茶屋「観民園」がありました。
「観民稲荷」の名も、城主が城を出て民の様子を見た場所という意味だといいます。
境内にある厳島神社弁財天は堀の中にあり、横を流れる風呂川から水を引き入れるようになっています。
本殿の北側には小さな塚があります。
これは京都の貴船から勧進した水天宮で、明治二十七年に観民稲荷神社境内に建立され、利根川に関わる水難の防止と、又生活用水としての水の有り難さに感謝の念を捧げるために祭ったものです。
観民稲荷神社には、厳島神社弁財天、水天宮の他に、金刀比羅宮、秋葉神社、天満宮が祀られています。
社務所は地域の公民館も兼ねています。
入口上の「でんわ☎でんぽう」の看板が絶妙に昭和です。
また、観民稲荷神社の北120m程の位置(岩神町2-20)には、静御前の墓と伝えられる祠が祀られています。
遺品の「遺愛の鏡」を御神体として祀ったのが観民稲荷神社であるという伝説も伝わっています。
『吾妻鏡』の下りにある、「義経に従っていたのは源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶並びに妾の静のみであった。
」の静御前です。
観民稲荷神社の案内●慶長六年(1601)酒井河内守重忠候が厩橋城主となった時城に水を曳きこむ風呂川の改修にあたって、その守護神として祭ったのが、この神社の始まりで以来酒井家累代の崇敬あつく、毎年御供米八斗二升の奉納があり寛永二年(1749)より松平大和守引き続いて崇敬ありて明治に至る。
●明治四十四年(1911)社殿が老朽化し建て替えする事となり、吾妻郡岩島村大字岩上にあった社殿を当時の金、金五十円にて買い受け、それを改修した総費用は壱千二十四円九十七銭で大正元年(1912)九月十八日に完成し、現在に至る。
●御祭神は含稲魂命で境内面積は六六六坪(約2,200平方メートル)●主な年中行事は歳旦祭(一月)初午祭(二月)春祭(四月)秋本祭(九月)●境内には厳島神社弁財天(福徳、知恵、財宝の神様)金比羅宮(交通安全の神様)秋葉神社(防火の神様)天満宮(学問の神様)水天宮(水防の神様)等の社がある。
●観民と言う地名は神社境内に酒井忠挙候が観民亭と言う別荘を造り御家中の遊興の場があったところからこの地域を観民と名付けられた。
●稲荷神社の稲荷は神様に稲の束を担って捧げたところから稲荷となったと言われ商売繁盛の神様として信仰されて居ります。
全国で三万社位あり、その中心神社が京都伏見稲荷大社です。
(境内案内板より)
こちらには、源義経の妻であった静御前が愛用した鏡が祭られているという言い伝えがあるそうです。
すぐ北側には、静御前のお墓と伝えられる小さなお宮もあります。
陸奥へ逃れた義経を追って、利根川のほとりまで辿り着いた静御前は、この地で病に伏し、亡くなってしまいました。
その際、親切にしてくれた渡し船の船頭に、何も与える物か無いからと、みずからの名前を与えたとのことです。
現在でも、この辺りに静姓が多いのは、その為だと言われているそうです(*^^*)
華奢な鳥居が特徴的。
観民というのは古の地名だったようです。
境内に丸い池がありますが、現在は水を入れていません。
名前 |
観民稲荷神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
027-231-2031 |
住所 |
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評価 |
3.8 |
社殿脇を流れる風呂川は、かの上杉謙信公が前橋城で沐浴をする為に造られたと伝えられています。
そう思って観ると何だか・・・