堤防を友達とで歩いて、話をしました!
〝木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい〟…と、中山道三大難所に数えられたここは〝旧太田の渡し跡〟です。
太田宿は中山道六十九次の江戸日本橋から数えて五十二番目の宿場町、その手前、伏見宿を出て一里半ほどの所にこの〝太田の渡し跡〟が在ります。
現在は僅かに石畳を残す程度だけしか往時の影を留める物は在りませんが、石畳に立ち川面を眺めた時、かつての人々の往来がイメージされてきます。
渡船場は時代と共に何度も場所と姿を変えたそうですが、この渡船場跡は昭和2年(1927年)に隣の太田橋が完成するまで使われていたそうです。
■ 一枚目の写真壱. 現場の案内看板…中山道の難所「太田の渡し」弐. 昭和2年ごろの渡し場の風景です。
※ 背後に見えるの現在の左岸(美濃加茂市側)の堤防辺りでしょうか?またこの頃には、すぐ上流にある今渡ダム(着手 昭和11年/竣工 昭和14年)はまだ無くて、流れる水量も多くてかなりの急流だったのではないかと思います。
この写真の撮影時は冬だったのでしょうか?分厚い防寒着を着込んだ人達が沢山乗っていて寒々とした雰囲気から当時の大変さが伝わってきます。
参. 安藤広重画「東海道六十九次-太田の渡し-」広重もここを通ったのですね。
松尾芭蕉も通ったようです(別記事にて)さすがに、この絵には富士山は描かれていませんが、代わりの山は「深田久弥の日本百名山」に選ばれている「恵那山」でしょうか?四. 往時の渡船場跡から対岸(可児市)を望みます。
隣は「旧太田橋」・・少し上流には「新太田橋」があります。
また、このすぐ上にはライン下りで有名な、日本ライン乗船場があります。
かつては、ここから4キロほど下流の左岸(可児市側)にありました。
■ 二枚目の写真壱. 渡船場へ向かう石畳が今も残っています。
弐. 船着場手前に一箇所だけ、石畳ではなくキレイな敷石の場所がありました。
この上に簡単な建物でも在ったのでしょうか?(料金所とか?)参. 船着場直前の下り坂です。
かつてここは沢山の人の往来があったのでしょう。
四. 参の場所の先端を横から見た写真です。
当時は橋も無い、堤防も無く、魚は一杯いて、水は今よりも遥かにキレイで・・そんな世界だったのでしょう。
堤防を友達とで歩いて、話をしました!気持ち良かったわ~!又、行きたい、今度は、お弁当持参で…
現地に案内は無い。
川辺へ向かう石畳が偲ばせるだけ。
名前 |
太田の渡し跡 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0574-25-2111 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.4 |
看板を読みたくて行ったら看板が消えてました…帰ってきて…