2018/4/21拝受 曹洞宗の寺院。
稲垣右衛門長茂は西暦1600年関ヶ原の戦いに徳川軍に3000石の旗本ととして参戦して武功あげ西暦1601年に10000石の大名になり伊勢崎藩の初代藩主になり天増寺を造り菩提寺としました。
天増寺には長茂をはじめ長男の重綱、次男の則茂、三男の重大、代々の稲垣家の大名等のお墓が全部で21基有ります。
私は稲垣平助則茂の末裔ですがあまりにも立派なお寺とお墓にお参りする事が出来て幸せでした。
東京からのお墓参りは、家族の大切なイベント。
良心的で、心洗われる大切な時間を説いてくださったのは、勿論住職さんのおかげです。
反抗期の子供達もここに来ると、先祖を敬う気持ちが、言葉少なに伝わります。
こちらには、 若くして悲劇的な死を遂げた、那波小太郎小次郎兄弟の墓があります。
天正18年(1590年)豊臣秀吉は全国の大名を動員して、小田原城の北条氏を攻めました。
このとき、上州は北条の支配下にあったので、秀吉は前田上杉に上州の攻略を命じました。
碓氷峠を越えて上州に攻め入った北国勢は、倉賀野城を手始めに、箕輪城、厩橋城などを圧倒的な軍事力で攻め落としました。
この状況に、もはや帰順しかなしと決意した赤石城の那波顕宗は、みずから上杉景勝の陣へ出向きました。
城の留守を守ったのは、那波小太郎小次郎の二人の兄弟でした。
ところが、城主の不在を狙ったように、粕川の畔に正体不明の軍勢の動きがあるとの知らせが届きました。
兄弟は父の代わりに軍勢を率いて出撃しましたが、敵と衝突。
二人とも討たれてしまいました。
兄は十八歳、弟は十六歳の若さでした。
里の人々は儚く散った二つの若い命を憐れみ、粕川の畔に墓を立てて供養しました。
このお墓が、のちに天増寺に移されたのだそうです(;_;)/~~~
上州三十三観音霊場第14蕃札所、佐波伊勢崎三十四観音霊場第19番札所。
立派な山門、裏手の墓地には伊勢崎藩主だった稲垣家代々のお墓があります。
2018/4/21拝受 曹洞宗の寺院。
伊勢崎藩主稲垣家の菩提寺。
境内にある稲垣家の墓石群は2メートル~以上もある。
巨大な墓石が多数並ぶ姿は圧巻。
当時の権勢を物語る。
境内にはシバザクラが咲き、本堂~庫裏へとは大きなボタンが満開でした。
子供の顔くらいある大きな花は、とても良い香りがしていました。
新上州観音霊場第14番札所の御朱印(千手観世音)を頂きました!
名前 |
天増寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0270-25-2787 |
住所 |
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評価 |
3.9 |
今迄コロナ禍により、御朱印は休まれており、御朱印を頂けませんでしたが再開の情報を得て、三度目で直書き御朱印を頂く事が出来ました!若いご住職の丁寧な対応に感謝!感謝です!此れにて、上州三十三観音霊場巡りを制覇する事が出来ました!