高崎公園のとなりに静かに佇むお寺です。
烏川に架かる橋の袂の坂を上がる途中に趣のある山門があった。
寺内は静寂に包まれていた。
日露戦争のロシア兵の墓があり、その由来に深く感銘した。
俳人、村上鬼城のお墓があります。
お寺らしいお寺四季を通じて花が咲いている。
高崎公園,頼政神社のすぐ近くにあります。
山門を入ると、すぐ左手に「ロシア人兵士の墓」と書いた標柱が立っていました。
このお寺には、NHKの大河ドラマにも登場した井伊直政のお墓があると聞いて、やって来たのですが…なぜロシア人が?とりあえず墓地の奥へ進むと、そこには妙に規律正しく並べられた墓標が林立しています。
正面には「満州事変忠霊之碑」…後で調べてわかったのですが、ここは陸軍墓地だったのでした。
隣接する高崎城址には、陸軍第15連隊が駐屯しており、日清日露の戦役で戦死者が出ました。
その人々を葬る為の墓地を、当時のご住職が快く提供したとのことです。
その陸軍墓地の右奥には、ロシア人兵士達の墓がありました。
彼等は日露戦争で捕虜となり、日本へ連れて来られましたが、体調を崩し、手厚い看護の甲斐なく亡くなったと、説明板に書いてありました。
それが嘘でないことは、丁重に葬られていることでわかります。
この頃の日本の軍隊には、まだ情け深い武士道の心があったのでしょう。
なお、太平洋戦争の折りには、敵となったロシア人兵士の墓を暴こうとした者達がいた為、寺側では一時遺体を別の場所に埋葬して隠し通したとのことです。
当時としては、とても勇気ある行動だったのではないでしょうか。
さて、目的の井伊直政公のお墓を探したのですが、案内板も見当たらず、仕方なく庫裏をお訪ねしたところ、ご住職の奥様らしき方が親切に案内して下さいました。
お墓というより、供養塔といったものなので、お寺も余り重要視していないのでしょうか?井伊直政は関ヶ原の戦いで奮戦し、その功により上州箕輪城を与えられました。
のちに家康に銘じられ、和田宿という小さな町に城と新しい町を作りました。
そこは中仙道と三国街道が交わる、交通の要衝であったからです。
新しい町を作るに当たって、直政は町の名を「松が崎」あるいは「松崎」と改めようとしました。
これには箕輪龍門寺の白庵和尚が、「松は長寿というが、いずれは枯れるものである」と反対し「成功高大」の意から「高崎」と命名することを進言したといいます。
その白庵和尚を招いて建てたのが、この竜広寺なのだそうです(*^^*)ついでと言っては何ですが、案内板があったので俳人の村上鬼城のお墓にも参拝して帰りました。
高崎公園のとなりに静かに佇むお寺です。
子どもたちと訪れたのですが、若いお坊さんが優しく、車に気をつけるようにと助言くださいました。
たしかに周りは車通りが多いですね。
でもこのお寺さんには静謐な空気が流れていました。
An interesting temple with a beautiful graveyard
井伊直政の供養塔がありました。
高崎の命名は、こちらのご住職の進言によるものだそうです(*^^*)
名前 |
龍廣寺(龍広寺) |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
027-322-2283 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.6 |
参拝者が使用できるトイレが屋外にも欲しい。