白骨の方が見つかったらしいのですが…?
パンフレットで観光スポットを探していたら観音堂が掲載されていたので訪れました。
浅間山の噴火で被災した鎌原村の歴史に触れることができて、良い経験になりました。
次回は郷土資料館に寄ってみます。
日本のポンペイと呼称される鎌原観音堂及び集落を、ジオガイドの説明でじっくり回りました。
火砕流により集落が覆われてしまい、観音堂の階段までたどり着いた、女性と老婆の遺骨を発掘したのを見て、改めて噴火の恐ろしさを感じました。
天明の浅間山噴火の際、土石流に呑まれずに残ったお堂。
石段の3分の2が埋まってしまったそうで、今は15段しかない。
少し掘り返して展示しており、埋まっていた石段を見ることができる。
そこから女性2名の遺体が見つかったとの説明書きがあった。
観音堂階段の下にご遺体2体が発掘され、娘が母をかばって守るように埋もれたお話は涙が止めどなく流れます。
不幸な災害で亡くなられましたが長きにわたり語り継がれることで少しでも報われればと願います。
ブラタモリも訪れたようで、隣の広報施設も伺って良かったと思いました。
古くて小さな観音堂ですが手入れの行き届いた茅葺き屋根に地域の方の思いの厚さが伺えます。
隣接する資料館には大昔の災害の様子をただ伝えるだけではなく、釜石の津波てんでんこのように、地域の子供達に浅間山の再噴火に備えた防災教育を行って、コミュニティーを後世に残そうとされているのではないかという地域の方々の思いが伝わって来ました。
御朱印は観音堂でいただけました。
人がいない時は横の資料館で頂けます。
赤い橋の下には出土した階段が一部見られました。
かつての村はこの地面の6メートル程下にあるんだなぁと実感できます。
日本で一番のキャベツ生産量誇るソウル精神を生み出し、関東に激震及ぼした浅間山大噴火の犠牲者家畜の無限な宇宙的魂が神宮から嬬恋高原の耕地を護っているバリアングル発信源ですね!人人の心の優しさと野菜の美味さに生き方の反省と感謝を覚え伝えられずにはいられませんです。
歴の深さに己の知識開花!
ブラタモリで見てから行きたかった場所…日本のポンペイとも呼ばれる鎌原観音堂のある鎌原村は天明の大噴火の際に1783年(天明3年)火口より北側約12Kmにあり土石流に襲われ壊滅。
このとき鎌原村の村外にいた者や、土石流に気付いて階段を上り観音堂まで避難できた者、93名のみが助かったそうです。
この災害では、当時の村の人口570名のうち、477名もの人命が失われました。
現在、地上部分にある石段は15段ですが、村では昔からもっと長いものだったと言い伝えられており、1979年(昭和54年)に観音堂周辺の発掘調査がおこなわれ、石段は全体で50段あったことが判明、土石流は35段分もの高さ(約6.5メートル)に達する大規模なものであった事が分かりました。
その際に埋没した石段の最下部で、若い女性が年配の女性を背負うような格好で女性2名の遺体が見つかり、顔を復元したところ、良く似た顔立ちであることなどから、娘と母親、あるいは歳の離れた姉妹など、近親者であると考えられています。
浅間山の噴火に気付いて、若い女性が年長者を背負って観音堂へ避難する際に、土石流に飲み込まれてしまったものと考えられ、噴火時の状況を克明に伝えています。
村がまるごと飲み込まれたことから、東洋のポンペイとも呼ばれ、発掘による出土品や当時の様子、絵図などが観音堂に隣接した嬬恋郷土資料館に展示してあります。
一般的に多くの火山災害の被災地では、生き残った住民が避難した先で新しい町を再建していますが、鎌原は生き残った住民が同じ場所に戻り、親を亡くした者は子を亡くした者と、家族を失った夫は夫を失った家族と、生き残った村人で家族を再構築して村を再建した非常に珍しい例となってます。
残された者達のこの地で生きていく覚悟から見事な復興がなされて現在に至ります。
そして現在、鎌原観音堂は火山災害から人命を救った堂として、広く厄除け信仰の対象となっています。
浅間山噴火で溶岩泥流に襲われ村は埋没、村民の多くが亡くなり一部の人は高台だった観音堂に避難!生存した村民達が大切に守り、過日NHKぶらタモリの取材が有り放映されました。
語りべがいますので是非一度!
溶岩のルートを辿ってこの観音堂へ辿り着く。
1度目よりも2度目、3度目と歴史を知り、本を読み、手を合わせる。
分かりづらい所にあるが、上の嬬恋郷土資料館を目指せば良い。
立派なトイレがある。
誰が管理しているのだろう。
鎌原観音堂に行く前にとなりにある嬬恋郷土資料館の2階で20分間のビデオを見ることをオススメします。
どんな出来事があったのかが分かりますので鎌原観音堂がさらに尊いものに感じます。
鎌原は天明3年の浅間山大噴火で村全体が埋まり、477名が犠牲になった悲劇の村。
生き残った93名が一つの家族として、子供を失った親は親を失った子供と、妻を失った夫は夫を失った妻と、等々、生き残った村民同志が新たな家族となり、そこから復興をとげた奇跡の村です。
天明3年の噴火でも奇跡的に残った鎌原観音堂は、今も直系のご遺族たちが230年以上絶えることなく、祖先を供養するとともに、毎日当番を決め、訪問客にお茶を無料で振るまっています。
観光施設というよりは、災害のあった地域の慰霊と伝承の場だと思います。
火山の噴火でどんなことが起きるのか、その一端を感じられます。
やはり先に資料館を見学してから、観音堂を訪れた方がよいと思います。
そのお時間がなければ、観音堂入り口近くに説明板がありますので、ぜひ読んでください。
赤い橋の下を覗くと、地面の中に階段が続いていて、辺り一帯が土石流によって埋まったことがわかると思います。
また、お守りを売っている茅葺屋根の建物の中では囲炉裏で火を焚いていて、昔のこの辺りの民家の様子を感じることができました。
付近にある資料館と違って、わざわざ立ち寄る場所ではありません。
もっと現地資料として解説、展示がなされるべきです。
いきなり「水子供養」とか「みやげ」では。
名前 |
鎌原観音堂 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0279-97-3852 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
江戸時代の浅間山噴火の恐ろしさを先日のブラタモリセレクション(再放送)で知り10年以上ぶりに鬼押出し園とテレビで知ったこちらには初めて来訪しました。
5〜6メートルもの土石流れ(火砕流ほど高温ではない模様)に町が埋まってしまうという大災害があった痕跡を見ることができます。
発掘調査の結果階段は全50段、地表面で15段、橋の下に数段の埋没階段が見られます。
近くの嬬恋郷土資料館を見学してから行くことをおすすめします。