吉野町、東吉野村、下市町、大淀町の広範囲に及ぶ。
式内社小社 大和国 吉野郡鎮座 川上鹿塩神社御祭神:天照皇大神 忍穗耳命 瓊瓊杵命 (昭和27年の「宗教法人法による届出書」) 明治25年「明細帳」太倉比売命 大国主神 味耜高日子根神 『大和志』大倉明神 『式内社調査報告』 石押別 大倉姫は、大己貴命の子下照姫の別名、またはでは味耜高日子根神の子とされる。
江戸時代は「大明神御社」「五社明神」「大倉明神」と称した。
白檮生(かしふ、樫の生えた原)で横臼を造り、その横臼に醸した大御酒を応神天皇に酒を捧げたと記紀にある。
白檮生(かしふ)から鹿塩、現在の樫尾へ転訛したとみられる。
名前 |
川上鹿塩神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-nara/jsearch3nara.php?jinjya=34462 |
評価 |
4.0 |
御祭神:アマテラススメノオオカミニニギノミコトオシホミノミコト御由緒:延喜式神明帳式内社 官幣小社この地域では最も格式が高く、氏子は川上村、吉野町、東吉野村、下市町、大淀町の広範囲に及ぶ。
往時は中荘、國栖、川上、小川の郷社であったが、のちに大滝、西河、樫尾三大字の産土神となり又大滝、西河も分かれて、今は唯樫尾のみにより祭祀を続けている。
社殿は神明造りの神さびた「かやぶき」で、昔から二十一年目ごとに式年遷宮を執行してきたが、今の社殿は明治三十四年(1901)に改築されたままになっている。
また本殿の覆家は、昭和十八年二月(1943)に改造上棟の棟札がその当時を物語る証となっている、またこの地は「古事記」応神天皇の西暦270年の条に見られる吉野の樫尾にあたる由縁がうかがえる。
古事記・日本書紀の記事によると、上代にこの社頭の白樫の下で御酒を醸したことがあって、それがやがて地名になったと思われるとも記されている。
創立は定かでないが、明治初年の記録によると、天智天皇の十年、(671)に改築した棟札が本殿内におさめられていたとあるので少なくとも飛鳥朝以前の創設ではないかと思われる。
神社までの道のり他の方の口コミなどを読み、宮瀧大橋を渡ってトンネルの手前のわき道を左に入る道を選んだ。
車はアクアだが、かなりオンボロなので傷つくのは仕方ないと決意して登りだした。
しばらくいくと道が4方向に分かれていて、当てにならない道標が一つだけがあった。
ここはスマホの「スーパー地形図」で神社への道を見つけてさらに登った。
最後は車の限界かと思うほどの急坂を登り神社の小屋のような所に到着した。
対向車がいなかったのは神様のご厚意か。
有難いことです。
昔の人々は、ここまで徒歩で上がってきて、毎年楽しく過ごしたのだろう。
それが他国との情報交換であったし、同盟の証だった。
結婚の約束もあったかもしれない。
その意味が薄れて古い社殿だけが残った。
この不便な神社をずっと残してほしい。