名前 |
御霊神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.5 |
相模国渋谷の庄下司職(長官)桓武平氏良文流秩父一族、渋谷重国の二男惣領であった高重が建立と伝わっている。
推測ではあるが久寿2年(1155)武蔵国比企郡大蔵(埼玉県比企郡嵐山町大蔵)の地で源為義の嫡男と推測される次男義賢(よしかた・木曽義仲の父)が、長男義朝の長男義平(新田義重の娘詳寿姫夫)勢の夜襲を受けた。
後詰め義重方の援軍に寄り義賢勢は討ち取られ(都幾川村市川系図)、その際の恩賞で上野国甘楽郡抜鉾郷(史料では黒河郷、現在の宇田.黒川.七日市に比定)を賜った。
現在の富岡市黒川(昔は北黒河村)の御霊神社付近に城を構え、甘楽郡小幡に住んだ児玉党一族と共に甘楽郡に根付いた。
同時期、甘楽郡丹生郷に紀伊国吉野川上村から藤原兼乗が入部し、丹生神社を再建し、五ヵ所に神社を創建したと伝わっている。
市川系図記載葛西十郎を斬った丹生小次郎の旧領地に比定。
御祭神は悲運であった崇道天皇(天皇としては記録が無い)を祀ったと伝わり、謎多き『大蔵合戦』の義朝方の勢力を知る数少ない鍵である。
渋谷高重は元暦元年(1184)、児玉党々主庄家長の娘婿と推定され、投降を呼び掛けられ捕虜となった木曽義仲の四天王の一人、樋口次郎兼光の首を片手で打ったと伝わる剛の者。
その子孫が数軒有ります。
渋谷庄司平高重は八王子の横山党党首小野姓横山時広の娘を妻にし、健保元年5月、執権北条と敵対した侍所別当(長官)和田義盛との戦い、和田合戦で戦死した。
和田義盛の子孫が高崎城の前身和田城を構築し、和田町・和田田中・下和田町の地名が残る。