墳丘長227mの前方後円墳、築造時期は5世紀後半と...
モナリザより美しい。
日本で19位の大きさの古墳。
おっきい。
古市古墳群の北端、5世紀後半に築造されたと思われる前方後円墳。
濠はありますが、水が溜まっているわけではないです。
拝礼所は、前方部中央にありますが、入り口は旧170号前方部東角です。
案内板は、大和高田線側、後円部の濠の外、中央点にあります。
允恭天皇陵。
応神天皇陵も近くにあります。
礼拝所は民家の間にありました。
被葬者:第19代・允恭天皇実際の被葬者は明らかにされていませんが、第19代・允恭天皇の陵と伝えられています。
出土した埴輪などから、築造年代は5世紀後半と推定されています。
拝:2020/07/07
允恭天皇陵として宮内庁の管理となっています。
拝所の真裏側に行政の取り付けた案内板があります。
一周して大きさを実感するにはちょうどいいサイズですよ。
拝所入口が古市古墳群一わかりにくかったです。
拝所正面一帯住宅街ですので、西側に入口があると気付くまでにかなりの時間を費やしました。
初めて古墳を生で見ましたが、中には入れないのですね。
森の周りのフェンス沿いをただ歩くだけという感じでした。
墳丘長227mの前方後円墳、築造時期は5世紀後半と推定。
允恭天皇陵、市ノ山古墳とも言う。
羽曳野丘陵から北東に延びた丘に造られている。
古代には古墳の南側を長尾街道が通り、このあたりまで来ると突然古墳の密集地帯に入ることになる。
道行く人々はどのような思いで、この壮大な王陵群を眺めていたんだろうか。
( ̄o ̄)/允恭天皇陵は、元々は二重の濠があり、周囲に10基近くの陪塚を持っていたが、現存する陪塚は宮の南塚古墳、衣縫塚古墳、唐櫃山古墳のみ。
「墓山古墳ときわめて近い平面形で墳丘が造られており相似形に企画された可能性が高い」とのこと。
(解説板より)。
なお、允恭天皇は第19代天皇で、第三皇子は安康天皇、第五皇子は雄略天皇となった。
「宋書倭国伝」のいわゆる「倭の五王」のうちの「済」にあてる説がある。
( ̄o ̄)/この古墳の第一印象は植物が覆い茂る古墳。
拝所には古墳北西部の旧170号線から入る。
拝所までの参道から眺める風景がいい。
空濠が緑の木々に覆われた墳丘を引き立てて絵画のように美しい。
允恭天皇(いんぎょうてんのう)陵古事記によると、 “天皇御年七十八歳、甲午の年の正月十五日にお隱れになりました。
御陵は河内の惠賀の長枝にあります。
”抜粋: 古事記 現代語譯古事記稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳。
礼拝所は、ここも住宅に囲まれていて、分かりにくい。
基本的に、前方後円墳なら前方側に作れている。
衛星写真で、確認するのが、見逃しがない。
案内標識が見当たらない事も多い。
宮内庁により允恭(いんぎょう)天皇陵と定められていますが、はっきりとは分かっていません。
允恭天皇は第19代天皇であり、古代中国の歴史書「宋書」に登場する「倭の五王」の内、「済」にあたります。
土師ノ里駅の北側、府道の北に案内板がありますが、宮内庁拝所は北側の離れたところにあるので注意。
なんというか、古墳はまわりから木々を眺めながら散歩する、楽しみ方の難しい場所でして。
少しは中に入れたり、公園が併設してあったりするともう少し楽しめるのですが。
ここはセブンイレブンがすぐ近くにあるので、散歩がてらコンビニで涼んだり飲み物を買ったりできます。
規模は全国20位と比較的大型の古墳です。
拝陵所は古墳北側にありますが、入り口は古墳西側にあり、比較的長いアプローチでようやく辿り着くことができます。
拝陵所で古墳に向き合えば静謐かつ雄大な光景ですが、ふと左を見てみると普通の住宅地で洗濯物が干してあったりと、藤井寺が生活の中に古墳がある街であることを改めて理解させてくれる場所でもあります。
第19代天皇允恭天皇の陵墓中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。
仁徳天皇の第四皇子。
母は葛城襲津彦の女・磐之媛命(いわのひめのみこと)履中天皇、反正天皇の同母弟である。
先代の反正天皇が皇太子を定めずして崩御したため、尊は病気を理由に再三辞退して空位が続いたが、皇后となる忍坂大中姫の強い要請を受け即位。
記紀には皇后の妹・衣通郎姫を寵愛しすぎて皇后の不興を買う逸話が残っている。
どうも絶世の美女であったらしい。
遥拝所は北側にあるが陵墓北側の道路から直接は入れず、西側の府道から参道が続いている。
名前 |
市野山古墳(允恭天皇惠我長野北陵) |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
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大きな前方後円墳ですが応神天皇皇后陵の方が大きいかも?駅前の交差点を北え向かった所に参道入り口が有ります!