戊辰戦争では旧幕府軍に従って戦った。
西本願寺の太鼓楼。
昔、太鼓を鳴らして時報や緊急連絡などの役目を果たしているようでした。
「新撰組の」の前身の「壬生浪士組」を結成。
「不逞浪士」の取り締まりと市内の警備を任される。
内部公開してないですが、逆に見たくなりますね。
とても良い感じがします!
今は台風被害による修復工事の事務所に塞がれて訪れることができません。
京都駅から歩いて15分ほどの西本願寺の右端にあり、新選組の屯所だった建物。
外からも見える落ち着いてモダンな建物。
中には入れませんが近くまで見に行きました。
新選組二度目の移転で使用されたという太鼓楼。
旧前川邸に倣いここでも大筒などの調練を派手にかまして信徒を震撼させたようです(笑)
『太鼓楼』は西本願寺の東北の角にあり、堀川通から(外から)見学します。
高さ約15mで、内部には昭和30年代まで、時を知らせるために使われた2つの大きな太鼓が残されています。
幕末には太鼓楼と太鼓楼の西側にあった北集会所を、新選組が屯所として使用していました。
その後北集会所は姫路市の本徳寺に一部移設されたため、現在の西本願寺に残された新選組の足跡は太鼓楼のみだそうです。
新選組がこの辺りで「大砲」の訓練を実施したとの案内板有りました。
新選組ゆかりの史跡。
看板を読むと隊士達は西本願寺内でろくな事してなかったらしいです。
敷地の角に有りますv(・∀・*)
説明書きには新選組が本願寺境内で実弾訓練してました、とさらっと書いてるけどそれで良いのか新選組…
新撰組の名残が見れます。
中は見れませんでした。
新選組の隊 士が増えて、長州藩よりだった西本願寺さんへ、いやがらせと監視のために強引に屯所にされてしまったのです。
この建物は当時とほぼ変わらないそうで、新選組の足跡をたどるには、立ち寄りたい場所です。
が、中は非公開です。
「大政奉還150年幕末維新を歩こう」新選組は、幕府に京都守護職を命じられた会津藩主松平容保の配下で活動した組織1867年(慶応3年)には幕臣に取り立てられ、戊辰戦争では旧幕府軍に従って戦った。
新選組は、壬生浪士組として発足し、その頃の隊員数は24名だったが、1864年(元治元年)の池田屋騒動以降、隊員数が増加し最盛時には200名を超えていたという。
1865年(慶応元年)、壬生の屯所が手狭となった新選組は、本願寺に移り、境内に「新選組本陣」の看板を掲げ、北集会所と太鼓楼を使用していた。
幕末の尊皇攘夷の中で、長州藩と本願寺とは深いつながりがあり、1864年(元治元年)の「禁門の変」では、長州藩士が本願寺に逃げ込んでいる。
そんな本願寺に新選組が屯所を構えたことは、一石二鳥の効果を狙ったものだったという。
名前 |
太鼓楼 |
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ジャンル |
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住所 |
〒600-8358 京都府京都市下京区堀川通花屋町下る本願寺門前町 |
評価 |
4.0 |
重要文化財。
今まで駅側からお参りして太鼓楼側まで周らずに帰っていましたが、今回縁があって北側からお西さんにお参りすることになり立派な太鼓楼を見ることができました。