名前 |
秋山新蔵人神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.0 |
秋山新蔵人神社(あきやましんくらんどじんじゃ)御祭神 秋山新蔵人光政公御縁起(歴史)新蔵人神社の鎮座地秋山は、小山川(身馴川)南岸に位置する農業地域で、「太平記」などにその名を残す秋山新蔵人光政ゆかりの地です。
「西部南朝功臣事蹟」によれば、秋山新蔵人光政は、南北朝期に桃井直常の部下として各地で転戦し、驍勇無双の猛者として知られていましたが、正平六年(1351)九月に同僚の多賀某と私闘し、敗死したといいます。
新蔵人神社はその社号が示すように、この秋山新蔵人公を祀った神社で、「風土記稿」秋山村の項には「光政社 秋山新蔵人光政の霊を祀れりと云、この人当所に来住せしよりかく唱へるなるべしといへど、其詳なることをしらず、昔甲州秋山邑に住し、在名をもて、秋山太郎光朝といひ、右大将頼朝に仕へしものあり、この光政もその子孫なるにや」と記されています。
ただし「明細帳」によれば、新蔵人神社の創建は天和三年(1683)のことと記されているため、光政の没後すぐに創建されたものではなく、その遺徳を讃える後世の人々が社を建立して、光政の霊を祀ったものと思われます。
内陣には、甲冑を付けた武将の騎乗の像が安置されていますが、これは祭神の秋山新蔵人光政公の像です。
この像には銘が入っていないため、いつごろ作られたものかは定かではないですが、少なくとも明治以前のもので、穏やかな表情をしています。
(境内案内板より)鳥居と正対して境内正面奥には新蔵人神社改築記念碑と並んで「社日様(生まれた土地の守護神)」石塔があります。
その右手に「黒宮(十二天神社)」と「新蔵人社」社殿が並び、「新蔵人社」右手奥側の石塚の上に「天手長男大明神」石祠があります。
(サイト「古社巡拝録」参照)新蔵人光政は、秋山地区の新蔵人神社付近に住んでいたと伝えられ、「太平記(室町時代の軍記物語)」には、南北朝時代吉野方について働き、観應二年(1351)加茂川の河原合戦で足利勢より出た丹党の阿保肥前守忠実と戦い、勝負がつかなかったと記載されています。
両勇士の名は敵味方に嘆賞され、この事から、現在の神川村の阿保と当地秋山は、昔から婚姻をしない習慣があったといわれています。
(埼玉県本庄市児玉町「聖徳山 光政寺本覚院」案内板より)新蔵人神社鎮座地の秋山は、康永四年(1345)天竜寺供養後陣のうちに見え、観応二年(1351)京都四条河原において阿保肥前守忠実と力戦し、同年九月十七日に近江八相山で戦死したと「太平記」などに名を遺す「秋山新蔵人光政」のゆかりの地であり、その遺徳を偲び、後世の天和三年(1636)に故地に創建されました。
(神社お寺の共有サイト「ホトカミ」参照)