拝殿の奥に本殿という神社建築様式が残っています。
八斗島(やったじま)の地名の由来と、八郎神社本殿を移設した歴史が残る稲荷神社。
八斗島稲荷神社と社額のある朱色の鳥居をくぐると、参道の両脇には赤い幟が連なり、お稲荷さんに来たんだなと感じつつお詣りし、社殿の側面から背後に回ると、覆い屋に囲まれた本殿の彫刻の見事さと年季の入り様に驚かされます。
稲荷神社にしては珍しい本殿だなと思って調べてみると、八郎神社から移設の歴史が次のように資料にありました。
明治43年(1909年)8月、大洪水に見舞われ、当時62戸の全村で床上浸水の被害に見舞われた。
当社も被害に遭い、県から100円の見舞金が交付された。
100円のうちの60円により、現在の豊武神社に合祀された下福島の八郎神社の本殿を購入、移築することになった、と。
八郎神社は「上野国那波八郎大明神事」に因む神社ですが、この様に豊武神社に合祀された後、戦後になり旧社地に復したとあり、現在の社殿は戦後のトタン屋根の建物で、右手に社務所を連ねたシンプルなものになっています。
しかしこの八郎神社本殿移転の話、移転の夜に大風が吹き、荒れて雷鳴が轟いたと伝えられているそうですが、八郎伝説のお社を移すのにそれ以上の祟りは無かったのでしょうか。
この移転の話、八郎大明神にとっては、より利根川に近い鎮座地への移転を喜んでいる様で、今日も利根川の氾濫を守ってくれている気がします。
八斗島神社の前を通る南北の道は江戸時代には、前橋の殿様が参勤交代の折に駕籠で通ったと資料にあり、当地は近世には利根川に接っする交通の要所でもあった様です。
すごく整ってる神社です。
気持ちいい場所ですね。
沢山の赤い旗が鳥居のように並んではためき素敵な神社でした☺
こちらの神社の中にひっそりとパトカーを止めて、良くお巡りさんが張ってます。
私はつい最近、その神社の十字路で一時停止無視(辺りが良く見えていたので徐行し、完全に停止していなかったため)青切符、罰金7千円と2点の減点を食らいました。
昨日も夕方5時半ごろにひっそりとパトカーが止まっていました。
前回、切符を切られた時刻もそうですが特に夕方に注意です。
まずはご用心、ご用心。
(追伸:神社の感想でなくてすみません)
御祭神 倉稲魂命 大宮姫命 大田命 大己貴命 保食命稲荷神社由緒安土桃山時代の天正年間(1573年1592年)の創立と伝わる。
当時、那波城主だった大江顕宗が奥州九戸戦争で討死した。
その家臣である境野主水吉澄・五十嵐無兵衛知徳の両人が遺志を奉じて、当国利根川の中州の荒野を開拓、その五穀豊穣の守護神として奉斎されたのが当社の起源。
吉澄の子である八斗兵衛宗澄は、知徳の子とともにその遺志を継ぎ、今に至る村落の礎を築いた。
その後、地名が改められて八斗島と呼ばれるようになった。
明治43年(1909年)8月、大洪水に見舞われ、当時62戸の全村で床上浸水の被害に見舞われた。
当社も被害に遭い、県から100円の見舞金が交付された。
当時の世話人たちがその使い道を相談。
100円のうちの60円により、現在の豊武神社に合祀された下福島の八郎神社の本殿を購入、移築することになった。
この際、本殿移転の夜に大風が吹き、荒れて雷鳴が轟いたと伝えられている。
八郎神社の御祭神は、往時は生贄も要求した大蛇だった。
その本殿は木造作りで、桁15尺5寸、杉伐三面作り、破風造・向拝付、茅葺。
本殿側面には精緻な彫刻が施されている。
その後、現社名に改称し、遠近にその御神徳が伝わって、豊作の神として著名となったという。
「やったじま いなりじんじゃ」と読みます。
可愛い狐が待っています。
名前 |
八斗島稲荷神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
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「正一位八斗島稲荷神社」と神額が掲げられ、拝殿の奥に本殿という神社建築様式が残っています。
ただ、「スズメ蜂に注意」とあったので尻込みしました。
右側には社務所と町の集会所が同一建物であり、日本らしいです。
千社札等は厳禁らしいです。