飽馬神社(あくまじんじゃ)主祭神 大日命 倭建命 豊受毘売命創建 景行天皇の御宇芸能 境内に神楽殿があり、昭和十年頃まで鷺宮の太々神楽を招き春祭に奉納していました。
由緒当社は、安中市西北の山間部に位置する東上秋間の鎮守で「上野国神名帳」従三位飽馬明神と記される古社です。
鎮座の由来は、倭建命(日本武尊)御東征の時、この伊勢森に憩い御馬に飽かせ給いて、伊勢の大神を祀り「飽馬ノ神社」と称し鎮座したとあります。
「和名抄」にも「飽馬 安木末」とあり「秋間」の地名の起こりとされています。
秋間にはかつて「秋間七騎」と呼ばれる武士団があり、「吾妻鏡」にも飽馬太郎の名も見え、武門の崇敬の厚い神社でした。
南北朝時代には、「貞和正平の乱」によって一時社殿が衰廃しましたが、応永二年(1395)三月、真砂淡路守の尽力により再建されました。
この時、倭建命を合わせ祀り御偉功を顕彰しました。
その後、慶長年間には、井伊兵部少輔、永銭六貫の奉納があり、明治以降も倭建命に肖り、武運長久の祈願が大いになされ、社額に「源朝臣希典(乃木希典)書」が掲げられています。
また、早くから復古神道が強く影響し、氏子の大部分が神葬祭にて祖霊祭祀を行う地域あります。
尚、字平に鎮座していた鹿島神社は「上野国神名帳」従五位鹿島明神と記され、明治期に合祀されています。
(鷺宮咲前神社HPより)秋間の由来ヤマトタケルノミコト(日本武尊)は景行天皇の命を受けて、天皇に従わない東国の者どもを征伐するため道中を重ねて上州へやってきました。
今日も朝早くから馬に乗って進んでいました。
こうして山の中の細道をたどり碓氷の峠をめざして行く途中で道端の老木の茂った小高い丘を見上げて馬の足を止めました。
命は毎日、馬に乗っているので飽き飽きしてしまったので、あぶみをはずして馬から下り、やがて丘の上に登られ、そこの石の上に腰をおろして、フーッと深い息を吐かれました。
命は馬に乗ることが飽き飽きしていたのです。
その丘の辺りに飽馬神社が建てられています。
そんなことから、この地をアキウマ(飽馬)というようになり、これが詰まってアキマというようになり、アキマ(秋間)となったといいます。
(安中市史第三巻「飽馬神社」の項参照)「飽馬神社」は西上秋間村の村社として明治四十三年の「秋間村郷土誌」に設定され今に受け継がれています。
「飽馬神社」の読み方ですが、現在ではアクマジンジャが正式な読み方です。
(サイト「安中市秋間地区 秋間みのりが丘区会」より)
この社がある秋間は、もとは「飽間」と書いていたそうです。
元弘3年(1333年)新田義貞が鎌倉幕府を攻め滅ぼしたとき、義貞の軍に加わり戦死した武士に、飽間三郎の名があります。
飽間三郎は、この秋間の出身でした。
「飽間」という地名には、次のような言い伝えがあります。
景行天皇の皇子であった日本武尊(やまとたけるのみこと)は、東国を平定するため、この地を通りかかりました。
毎日、馬に乗っているので飽きてしまい、馬を降りて休んだので「飽間」となったとか。
それが時代を経て「秋間」となったのだそうです(^_^ゞ
名前 |
飽馬神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
027-381-2726 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.4 |
場所的に、街灯が無いので、周り暗いと不安を感じた。