箕輪城?
フルーツラインから登ると本丸まですぐですが、反対側の神社から登りました。
倒木などで少し道がわかりにくいですが、15分程度で本丸まで行けます。
地形がよく残っていて、門跡?や井戸跡もあり、とてもみごたえがあります。
神社側は道中とても道が狭く、駐車場も2台位しか停められませんが、こっちからはほとんど登る人はいないようです。
標高346m、比高約135m高崎市指定史跡2022年、元旦🎍に登城🚶u200d♂️真冬でもチョイヤブってるトコがある😅けれど遺構の残りが素晴らしい👏段郭♬切岸♬堀切♬竪堀♬土塁♬土橋♬ちょこっと残った石積♬見て回るといつの間にか時間が経ってるウレシイ城跡👍新年早々に良きモノを見れました🙇
長野氏の城跡でフルーツラインから登るとすぐに城跡です。
遺構はいろいろ残っています。
ただそこには縄張り図がないので、大手道方面の郭には行けませんでした。
次はがんばります❗
入り口に看板などはなく、歩道は登山道のように整備はされていません。
倒木が道を塞いでいたりしますが、土塁はかなりしっかり残っており、土木工事の跡もかなりしっかりわかります。
句碑が道沿いにあるので、それを辿っていけばなんとか迷わず行けそうですが、鬱蒼と木が繁っているので歩くときは気をつけた方がよさそうです。
戦国時代には激しい合戦があったようで、安中市の簗瀬両子古墳の近くにある首塚との関連も想像でき、当時の上州の勢力図にも空想が広がります。
この鷹留城には、城の守り神であった白狐の伝説があるそうです。
父である信玄の命を受け、長野業通、業固の守る鷹留城を包囲したのは、武田勝頼でした。
城を一望する上室田の高地に陣を構えた勝頼のは、この小城を一気に揉み潰さんと決意していました。
父の信玄から与えられた猶予は、三日間であったからです。
勝頼は軍勢を大手と搦め手に分け、さらに水の手を押さえるために一隊を割き、父譲りの万全の構えで、城の攻撃にかかりました。
ところが、そのとき急に深い霧が立ち込め、まるで城を覆い隠すように、視界を閉ざしてしまいました。
この霧のなかで軍勢は方向を見失い、城を攻めるはずが味方に向かい、入り乱れ右往左往して大混乱となりました。
これでは戦にならないので、勝頼は下知して軍勢を引き上げさせ、霧の晴れるのを待ちました。
じりじりと待つこと五日間。
ようやく霧が晴れたので、一気に城へ向かって駆け下ると、すでに城はもぬけの殻でした。
深い霧に乗じて、城兵は残らず箕輪城へ脱出していたのです。
このお話から、勝頼が陣を構えた場所を五日平と呼ぶようになったとのことです。
また、五日間も深い霧を巻き起こしたのは、鷹留山の麓に祭られた矢背負稲荷の白狐であったと伝えられているそうです(*^^*)ただ、実際に現地へ行ってみると…「鷹留城死没者慰霊碑」が立っており、裏面には「鮮血淋漓 」の文字があり、相当の激戦と犠牲者のあったことが窺われます。
どうも伝説のようには、行かなかったようですね(;_;)/~~~城跡へ登ってゆく道には、新しい句碑が並んでいました。
地元の愛好家の方々でしょうか。
辺りは、いまは広い道路が通り、川には立派な橋が架かっていますが、まさに深山幽谷という感じです。
このような場所に霧が渦巻いたら、伝説のように方向を見失ってしまうでしょうね(^_^;)
鷹留城跡場所は標識がある所は駐車スペースが狭く先に行くと広い所がありこの場所に車を止めた。
登城口は右の道を行く事。
堀切や空堀が見事にあります主郭に案内板と石碑が有りました。
素晴らしい遺構が残ってる♪
この城の特徴は尾根筋の堀切が短い間隔で深く複数存在する事です。
ただ城の規模は中くらいなので本城の箕輪城中のに比べれば防御力は少なかったと思われます。
楽しい連郭式山城~
鷹留城は、箕輪本城の周りを防御する支城群の一部と考えられ山城の遺構が完全に残る道路側からは、山林が邪魔して内部をうかがい知ることは困難であるが、中に入ると大堀切や各曲輪の縄張り様子がよく分かる遺構となっている。
よく残っています。
中世の城跡にしては、珍しいです。
箕輪城🏯に行くなら、必ず行くべきです。
こちらは、長野氏で廃城しているので、長野業政を一番感じることができます。
名前 |
鷹留城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.3 |
2018/4/29箕輪城をコンパクトにまとめた感じで、垂直の切岸や堀切の鋭さは文句なし。
これほどの素晴らしい遺構はまずないと断言できる。
木漏れ日の中を静かに戦国時代に想いを馳せて歩いていると、幸せ感が増してくる♪