景徳院の駐車場の側にあります。
景徳院駐車場に入り、まず目に入るモニュメントです。
武田滅亡時の伝承で、北条夫人の十六人の侍女が川に身を投げて亡くなったそうです…。
今だと身を投げても、亡くならないのではと思ってしまいます。
それに、モニュメントは後世に作られた物なので、目に入っても、ふ~んぐらいに受け止めていいと思います。
景徳院の駐車場にあります。
武田家の滅亡時のエピソードで女性たちが川に身を投げて自害した場所です。
今見ると水の量も多くなく深くなさそうで投身しても失敗しそうな感じがします。
上流にダムなどもできているので、当時と今では水流も違うのでしょう。
紅葉期には向かいの山がオレンジ色に色づいて美しい場所です。
すぐそばには首洗い池もあります。
景徳院の駐車場にある碑に姫が淵の由来が書いてありました。
武田勝頼夫人の侍女十六人が日川の淵に身をなげて殉死したそうです。
時代に翻弄されて亡くなった方々…最後に何を思って亡くなったのか。
心が痛みました。
武田家家臣の小山田家は元来 横山党血筋であり(自称:清和源氏)この一帯(立川市、八王子市、青梅市、相模原市、上野原市、大月市)を支配していた3000年前からの賊徒である(横山党や児玉党は日本最大のやくざであり武家ではない)。
武田信虎の姉妹が小山田家に嫁いでいて血縁関係にはあるが山賊家系に変わりはない。
横山党といえば平塚市、横浜市戸塚区、海老名市、厚木市の一部(愛甲三郎)が領地であり、海老名市の渋谷家も秩父党血統である。
平安時代から続くヤクザの家系である。
武門と呼称するようになったのは明治期からで似たもの家系の明治の為政者が正当化したの過ぎない。
山梨県甲州市大和町田野にある景徳院の駐車場に碑が建てられています。
武田勝頼と共に落ち延びた北条夫人の身辺の世話をしていた侍女16名も武田氏の滅亡と共に命を絶ったとされ、その場所が姫が淵と呼ばれています。
武田勝頼敗走は、甲州市の旧大和村まで来た。
だが小山田信茂が門を開けず、岩殿城(いわどのじょう)に入れなかった。
もうこれで逃げ落ちる先はほぼ絶たれ終焉の地の田野の里へと追いつめられるのだが、ただここで何故小山田信茂は最後の最後に裏切なければならなかったのか?が疑問で雨の中、大月市内を探索を巡った。
岩殿城まで登ろうと今回の旅に気合を入れてはきたが、残念ながらこの大雨で断念。
もう梅雨入りなのか? そこで、笹子駅の横の大月市役所の支所を訪ねた。
何か良い資料でも有ればと思ったが、こことは違う市の観光課を勧められた。
だが、こちらでも小山田氏と岩殿城に関する情報はほぼ無し。
そこで思案していると、市の郷土資料館が近くにあるので、ここでの期待を託し訪れた。
思うに、このようなところで疑問を直接ぶつけると正解を言われてしまうので、これでよいのかな?。
いつもと違う探求の仕方でよいのかな?と自問しながら訪問をした。
私のような探索の旅は、現地に行って、その地の地形(ジオ)の気候条件(温度 降水量など)や植生など科学的条件とそこに暮らす人のお話からの情報を根拠として推測し、歴史文化に流れが生じる原因がそれなりにあるのではないか、と不完全ながらも斬っていくのを楽しみにしているので、いきなり答えというのも、と考えていた。
だが、正解らしきことを教えていただいたが、それによりまた新たな疑問が生じたので、その武田家終焉への旅は、気候がよければまだまだ続けて行き、気持ちはワクワクと前向きに進めたい。
今回知ったことを要約すると、 その一の理由として、岩殿城の立つ地形を見る。
ここは北の青梅に抜ける街道と西の武蔵 南の駿河など、北条氏や今川氏と対峙する前線基地である。
そして常陸の国から来た武田氏は清和源氏の血筋で、小山田氏は秩父吉田の桓武平氏の流れを持つ氏ということだ。
つまり、小山田氏は武田氏の中では『外様』であった。
武田の血を継ぐ家系の穴山氏 甘利氏 板垣氏などは国中支配であるのに対し、この外様の小山田氏には郡内(ぐんない(山梨県都留郡一帯))の地の岩殿に戦略的砦(とりで)城を守らせたのにも合点はする。
ここは、相模川水系・多摩川水系の流域と殆ど一致するので地形からも武田家家元の富士川流域の国中(甲府盆地)とは別の国と言えよう。
先日訪れた甲府市の武田の『守り砦』の要害山にある要害山城とは色合いの違う 前線基地『攻めの城』の岩殿城になる。
また、小山田氏の政(まつりごと)は大月市内の地ではなく、同じ郡内ではあるが都留市の谷村城(やむらじょう現在の都留市(つるし)上谷一丁目)であった。
谷村領は東西の交通の要衝であり、『外様』ゆえに地理的条件が生じている。
ということだ。
その二の理由として、小山田信茂は武田勝頼の時代には、勝頼にとって最も信頼の厚い家臣へと昇り詰めていることだ。
『甲陽軍鑑』に拠れば、三方ヶ原の戦いなどの西上作戦に際して信茂は先陣を務めていた。
つまり、勝頼敗走時でも徳川家康がお得意とする「調略」にもお声がかからなかったのだ。
もし調略作戦を織田 徳川方がすれば、勝頼方に安易にその情報が漏れてしまうからだ。
その三の理由として、勝頼が新府城から敗走するときは、徳川 織田連合軍と対戦する気満々だったと思われる。
岩殿城に立てこもって籠城して戦いを長引かせ、上手くすれば北条方の援軍を得られる可能性を探ろうとしたのであろう。
勝頼の妻は北条夫人で、婚姻親戚関係にある。
新府城は前回探索したようによくできた城ではあるが、まだ未完成の部分が多く、ここで籠城戦に持ち込むには不備が多すぎる。
よって小山田信茂は岩殿城行きを強く進言したのであろう。
これで。
勝頼の一群は岩殿城を目指したのだ。
その四の理由として、新府城から敗走する前の大戦に「高天神城の戦い」(静岡県掛川市)で、勝頼が助けに行かなかったことだ。
もうこの時点までとその後に、多くの配下の武将が徳川家康の調略により投降することを腹では決めていたのではないか。
よって岩殿城への敗走で次々と離脱し、残るはわずかで、このまま勝頼と行動を共にしていると小山田家自身も終焉を迎えるのと危惧したのであろう。
よって小山田信茂は岩殿城の門を閉ざして勝頼一行を入れなかった。
つまり、小山田家の存続を一番とした。
次に理由ではないが感じることは、武田家臣団は、自身が一国一城の主(あるじ)として自立した者たちの集まりである。
武田信玄の親の武田家初代武田信虎(のぶとら)が、同じ武田氏の血を引く穴山氏 甘利氏 板垣氏 栗原氏などを闘争の中で一族を束ね、甲斐武田家宗家としたのだ。
ここは徳川家臣団とは全く違としている。
徳川家康は絶対的な殿であるが、武田家では信玄の父信虎でさえクーデターで失脚させられている。
不徳な殿であればすぐ見限る集団である。
今回大月市の市職員との会話の中で、小山田氏を悪く言う人はこの大月ではいないだろう。
との事。
これは小中学校での地元教育の中でちょっとした地元へのナショナリズムができているのではないかと私は思う。
地元の方は、この大月が戦場となって荒れ果てるのを避けるために…………云々。
だが、戦国の世であっても民百姓がやたら多く死に田畑が荒れ果てるようなことは決してしないのが戦いのルールであろう。
名前 |
姫ヶ淵 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
景徳院の駐車場の側にあります。
武田勝頼公の妻北条夫人の侍女16名が日川の淵に身を投げ殉死したと伝えられている場所です。
現在は上流に発電所があり、取水され川の水は少なくなって、当時とはだいぶ変わっているようです。
北条夫人とその侍女達が安らかに眠られるようお祈りさせて頂きました。