偉人小栗上野介 罪なくして此処に斬られる。
ここを訪れるのは2度目です。
小栗公とその家臣たちが、無実の罪で斬首されました。
どのような思いで臨んだのか?
罪なくして捕らえられ、取り調べもなく翌日に斬首するという非情なことを指示したのは明治維新で活躍した勝海舟なのか板垣退助なのか?それとも?
幕末に活躍した幕臣、小栗上野介忠順終焉の地。
薩長に対して主戦論を唱え、役職を罷免される。
知行地である権田村に隠遁したが、新政府軍に捕縛され取調べもなく、翌日には処刑された。
菩提寺である東禅寺には小栗の墓や遺品、数々の功績を伝える資料が展示されている。
小栗上野介終焉の地散歩幕末、小栗は一家揃って高崎市にある東善寺に移り住む。
村の水路を整備したり塾を開くなどして過ごしていた。
慶応4年(1868年)小栗は東山道軍により東善寺にいるところを捕縛され、2日後、取り調べもされることもなく近くの河原で斬首されている。
42才。
籠に乗せられてこの地に連れてこられ、その籠をこの場に放置していた。
この籠は、今、東福寺に安置されている。
小栗上野介、罪なくして此処に斬られる❗️さぞや無念の事であったろう‼️アメリカ🇺🇸との交渉も勝海舟の裏に隠され、商工業での功績も隠され、誰か大きな圧力の基に潰されたのだろう。
その辺りをどなたか探求解明して頂きたい。
今までの歴史をひっくり返す様な史実が解明される事を望む⁉️
偉人小栗上野介 罪なくして此処に斬られる。
小栗上野介忠順(ただまさ)は、落日の徳川幕府の建て直しに奔走しましたが、時流には抗しきれず事敗れ、所領であった上州倉渕村権田に隠棲しました。
隠棲といっても、たった数日間のことで、薩長の官軍は彼を許さず、反逆を企てていると決めつけ、容赦なく烏川の川原に引き出し、家臣とともに斬首の刑に処しました。
忠順は余生を帰農して送るつもりで、妻子を呼び寄せた直後だったといいます。
官軍の疑惑を深めたのは、幕府の御金蔵に残った財宝を、忠順が持ち出したとの流言でした。
この流言に踊らされた暴徒が、村を襲う騒ぎとなり、これを上野介が自力で撃退したことから、かえって反逆の意思を疑われる結果となりました。
倉渕の村民有志は、言われなき逮捕と斬刑に怒り、終焉の地に慰霊碑を建てることを決議しました。
ここから、この慰霊碑は大きな問題を引き起こします。
村人達は思いを込めて「偉人小栗上野介罪なくして此処に斬らる」と、碑に刻みました。
ところが「罪なくして」の部分が明治政府を批判するものとして問題となり、警察所長から呼び出しを受け、この部分は許されないと警告されました。
困った有志の代表は、碑文を依頼した蜷川新(にながわあらた)博士に相談。
博士は、たまたま時の首相であった田中義一の政策ブレーンであった為、ようやく許しが出て、この思いを込めた碑文を後世に残すことができました。
時流に恵まれなかった悲劇の人物として、その名はいまに伝えられ、再評価もされているようです(^_^)vいま風光明媚な地に建設された碑の傍らには水仙が咲き乱れ、真っ青な空に「丸に立つ波」の家紋を記した旗が翻っていました(^_^ゞ
慶応4(1868)年4月5日、上野介と家臣3人は捕縛され、何の取り調べもなく翌日水沼川原において斬首されました。
上野介42歳でした。
ここ終焉の地には、『偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる』と刻まれた碑が、昭和7(1932)年、地元の有志等によって建てられ市指定史跡となっています。
橋からスロープを降りた正面左側に駐車スペースがあります。
名前 |
小栗上野介忠順終焉の地 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.4 |
周辺のオススメ

小栗上野介に対する地元のみなさんの思いが伝わってくる場所でした。