金精峠の帰り、休憩した道の駅・くろほねやまびこから...
小さい城跡だが、堀が素晴らしい。
これが知られていないのは惜しい。
いろは坂、戦場ヶ原、金精峠の帰り、休憩した道の駅・くろほねやまびこから近いので寄ってみました。
R122からは結構離れた高台になります。
お寺の駐輪場から見下ろすと、かなり幅が広く深い堀で囲まれた本丸が見えます。
本丸が見下ろせるのも不思議ですが、お寺の周囲にも堀と土塁があり、縄張りだったそうです。
本丸の東側の堀底を下ってみると、南側は帯郭でその先は崖、西側も崖でした。
南西に下れる通路があります。
本丸東側は二の丸でこちらにも遺構があるそうですが、確認しませんでした。
再訪して確認してみたいです。
全体的には結構な規模があります。
赤城山の東側は沼田を真田氏に抑えられて、上杉氏が佐野に行くのに使ったので、上杉氏にも攻められたようです。
太田金山の由良氏とも闘ったり、北条氏に通じていたり、阿久沢氏は結構波乱な一族だったようです。
行ってません。
多分、実家のお墓がちかいので、そこかと・・・
戦国時代、渡良瀬川上流の黒川谷には、黒川衆と呼ばれる地侍達が勢力を張っていました。
「黒川八城」と言われ、それぞれに城を構えていましたが、上杉や北条などの大勢力に対抗するため、結束して事に当たっていました。
渡良瀬川は、川の水が黒いことから、昔は黒川と呼ばれていました。
上流に足尾銅山があり、のちにはマンガン鉱も発見されているので、まさに黒い川だったのでしょう。
その黒川衆を束ねていたのが阿久沢氏でした。
阿久沢氏は、奥州の安倍貞任の流れを汲んでいると言われています。
貞任は奥州で反乱を起こし、朝廷から派遣された八幡太郎源義家によって鎮圧されました。
安倍氏の主だった者は処刑されましたが、残った者は義家に帰服し、ともに都へ凱旋の途に着きました。
そして日光から尾瀬を通り、大間々に至ったとき、義家の命により、鳥海彌三郎と栗谷川次郎の二人が、奥州と都を中継する役目を与えられ、黒川郷を与えられて残されたといいます。
このとき、栗谷川は阿久沢、鳥海は松嶋という新たな姓も与えられました。
松嶋という名は奥州の風光を偲んだとも言われます。
それから二十年の後、出羽の国の清原武衡が反乱を起こしたとき、義家は鎮守府将軍として、再び奥州に向かいました。
阿久沢氏と松嶋氏は、武蔵国小玉村(埼玉県児玉町)の八幡宮で、義家の軍勢を迎え、先陣として出羽の国へ出陣したといいます。
戦国時代になり、深沢城の辺りは根利道と呼ばれる、桐生から沼田へ抜ける山道の入り口であったので、阿久沢氏の存在は、大勢力といえども無視できなかったようです。
ある時は越後から上州へ押し出してきた上杉謙信を迎え、またある時は沼田を攻略する北条軍の先導役となりました。
阿久沢氏は、もともと桐生氏に属していましたが、その桐生氏が由良氏に滅ぼされても由良氏には従わず、独立独歩の道を歩んでいました。
金山城に拠る由良氏とも、たびたび激突しますが、戦いの果てに、ともに北条氏に仕えることになります。
ここで阿久沢氏は 一廉の武将となりますが、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅んだため、ついに武士を捨て帰農したといいます。
実は仕事で知り合った方が、この阿久沢氏の末裔に当たるというので、深沢城を訪ねてみる気になりました。
前橋方面から赤城山の中腹を車で走ってゆくと、片方は谷、片方は断崖の、とても険しい山道でした。
断崖からは太い氷柱が垂れていました。
こんなところに城跡があるのだろうかと思っていると、到着したのは、明るく開けた集落でした。
時間があれば、阿久沢氏代々のお墓がある正圓寺に寄りたいと思っていたら、城跡のすぐ隣でした(*^^*)
良い感じに昔の面影のある城跡です。
名前 |
深沢城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
見学しやすい。
下に降りてからまた登るのもよい。