159号沿いに弁天様と案内板があります。
池の中に建つ両部鳥居の額は正面には「厳島神社」と書かれていますが、裏側にも額が架かっていて、そちらには「伊都岐島神社」と書かれています。
広島県廿日市市宮島町の厳島神社の御祭神は「宗像三女神」ですが、「伊都岐島大明神」というのは読みは同じですが日本書紀や古事記には登場しない女神と夫神とその子供神の三柱の神さまです。
場所が山なら何となく大山祇神と妻の鹿屋野比売神とその子供達を思い起こさせます。
案内板や資料など見つからず詳しいことは分かりませんでしたが、この地に勧請された経緯などを掘り起こせば何か分かるかも知れません。
「真壁」地名由来記真壁は「真髪部」という部民が住んでいた所です。
氏姓制度の氏の上に率いられた氏人の分家や新宅の塊や家来の集団である「部」が地方に住んでいました。
日本書紀、清寧天皇記(480)によると、真髪部はもともとは「白髪部」で、天穂日命(天照大神の子)の子孫が作った部のようです。
清寧天皇には御子がなく、天皇の御名「白髪」の御名代部として代髪部を置き、蝦夷族の融和を図ったようです。
ここには駐屯兵を置き、朝廷政権の強化や文化交流の拠点とし、舎人(政権)・膳夫(食膳)・勒負(警固)の仕事をさせたようです。
しかし、実際には御料地を管理する人達の居住地だったと思われます。
弁天池付近の御門、御園の地名が往時を物語っています。
後に光仁天皇(770)により「真髪部」に改名され、西暦785年に「真壁郷」(和名抄による)となり、「真壁村」へと発展しました。
近代になって、明治二十二年(1889)の市町村制施行により、真壁村など九つの村(現在の大字)が合併し北橘村となりました。
昭和五十六年(1981)には真壁区を真壁東、真壁美保、真壁上、真壁下の四区に分区し現在に至っています。
(現地案内板より)初代北橘村役所跡明治二十二年(1889)四月一日、町村制の施行により、八先村・分郷八先村・小室村・上南室村・下南室村・上箱田村・箱田村・下箱田村・真壁村の九カ村が合併して「北橘村」が誕生しました。
この年の六月から大路真壁字前中の溜池東畔の弁財天宮側にあった共有建築物を仮の役場庁舎として、明治三十七年(1904)まで十五年間にわたって村政が行われました。
その後、仮庁舎であったこの建物は地区住民の集会等に利用されました。
昭和五十八年(1983)に取り壊しとなり、同時に現在の真壁多目的集会施設が建設されました。
(現地案内板より)
名前 |
弁財天宮 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
159号沿いに弁天様と案内板があります。
車一台分の道幅ですが、池の前も通れます。
集会施設の手洗い場の横から階段を降ると社殿がありました。
池の中に鳥居が建っていて、水鏡に映る景色が神秘的です!!鳥居を正面から拝見する景色と、裏から拝見する景色とでそれぞれ楽しめました。
社殿奥にも道があり、武尊山大神の石碑などがありました。