不気味な名前であるが文字通り、一向一揆の時代に古墳の上で血で血を洗う壮烈な戦いが有り、古墳の山が血で赤く染まったとの事で、この名前が付けられた。
隣の松山城跡であるが、知られているのは一向一揆での数多くの戦であったり、前田家の山口玄播攻めの本陣など記録があるが、平安時代から南北朝・応仁の乱・源平・一向一揆・戦国時代と数多くの戦いが有った場所であろうと推察する。
加賀平野が湖であった時期は海側台地での移動、山側の移動の二系統であり、交通の要衝であり、また古墳も存在した巨大な荘園によって栄えていたと思われる。
世界真光文明教団加賀道場は過去に慰霊祭を実施し、怨霊を数多く救済してきたが未だに周辺住民に不幸現象をもたらしている。
加賀はこんな場所が数有り過ぎて追い付いていない。
これに協力してくれる人を募っています。
0761-75-8611
名前 |
チハカ古墳群 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
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チャーカ(血墓)山支群 西暦400年後半ころチャーカ山古墳は、分校の古墳群の中では東方200mにあるカンザン前山古墳群(主群)に準ずる古墳群で、前山と同じく独立した丘陵の尾根上に方・円墳ばかり18基の古墳が確認された。
いずれの古墳も未発掘で詳細なことは不明であるが高さ4m、直径20m以上の比較的大型円墳が4基含まれている。
又この古墳群に連続してチャーカ山西麓群(3基)、松山古墳群(5基)があり、分校古墳群は丘陵の尾根上に沿って、東方から西方へと移行して築造された。
調査報告書に依ればこの古墳の築造年代は5世紀後半頃と考えられ前山の前方後円墳(3基)が4世紀代に古代江沼の全地域を支配した広域大首長墳とすれば、チャーカ山古墳の築造時期には既に大首長は南郷地域圏の族長へと移動しており、その後にこの近辺を支配した小族長や同族の古墳群とされている。
チャーカ山の名称由来については伝わっている血墓山がなまったものと考えられる。
中世、隣接した丘陵に松山城が構築され幾度となく血生臭い戦いが繰りひろげられていたが、古代先人が眠るこの領域が主戦場となり、多くの血を流した事から後世の人々が血墓山と名付けたものと思う。
平成15年 分校地区史跡保存会 現地解説板から転記。