上野三碑の1つにして、日本三碑の1つ。
元日で閉まっていましたが、別の機会に再度訪問したいです。
重要文化財があるとは思えない程人影もなく静かです。
山上碑、金沢碑は山にあるのに比べ多胡碑は住宅があるひらけた公園のような場所にあります。
多胡碑のある建物の回りの大木と石仏も素晴らしいです。
ボランティアの方の説明もわかり易かったです。
2022年1月5日に吉井駅前発の上野三碑めぐりバス(無料)を利用して見学しました。
書道史上の日本三古碑(多賀城碑、那須国造碑)の一つです。
和銅4年711年3月9日甲寅(きのえとら)に多胡郡新設の行政命令が出された記念碑です。
続日本紀の和銅4年3月辛亥(しんがい)6日の条に上野国の甘楽郡(からのこおり)、緑野郡(みどのこおり)、片岡郡から六郷を割いて、別に多胡郡を置くと記されています。
当時の一郷は、50戸と考えられていますので、300戸と一致します。
議事録的に、この宣旨を書いた人物が、左中弁正五位下の官位であった多治比真人(たじひのまひと=三宅麻呂)と碑文にあります。
その後の行文には、この行政地区分の変更を指示した高官の名前が列挙されています。
太政官の二品(にほん)穂積親王(ほづみのみこ)、左大臣の正二位石上尊(いそのかみのみこと=石上麻呂)、右大臣の正二位藤原尊(=不比等)の以上3名です。
碑文に「羊」という字が出てきます。
地元の羊太夫伝説で知られるように、羊という人物を郡司として起用したとする解釈が一般的です。
その他に方位や別の漢字の略字という説もあるそうです。
個人的には、羊の字義として、分散していたものが集まるという意味に解して、三つの郡から六郷を集めて(あつめあわせたまいて)多胡郡に成したと読み取っています。
笠石が乗っている形は、那須国造碑と同じです。
上野三碑の中ではやはりダントツの碑です。
前から比べると環境整備を整えてます。
資料館がありますが、ここは珍しく有料です。
以前ユネスコ登録記念で無料にて入りました。
羊太夫といえば秩父の和銅遺跡とも関係しています。
上野三碑の1つにして、日本三碑の1つ。
奈良時代の711年に今の高崎市山名町と吉井町にかけて新しく「多胡郡」という郡が作られたことを記念して建てられた碑だそうです。
郡の長官となった羊という人が建てたそうです。
多治比真人、穂積親王、石上尊、藤原尊の名が記されている。
天空の時を越えて古人の想いが伝わって来るようです。
上野三碑めぐりで来ました。
大事に保護されており、1300年もの間に現存していることにロマンを感じます。
今資料館の入場料が無料です。
とても楽しかったです。
ライトと解説音声がついているので、いつ訪ねてもしっかり見学できます。
他の碑と比べると、文字がデカイ。
古代の文字がこんなにハッキリ残ってるのだから感動!
日本でも一、ニを誇る古さの石碑。
正史の記録を裏付ける史料は日本ではほとんどないから、ぜひ一度は見て欲しい。
近くからは多胡郡衙正倉跡が見つかったから、ますますこの地域が古代史研究上、重要になってくると思う。
1300年前の東アジアの文化交流を記す3つの石碑「上野三碑(こうずけさんぴ)」を代表して、ここ多胡碑には多胡碑記念館が建てられています。
ユネスコ「世界の記憶」登録の遺産、国の特別史跡でそれはタイムカプセルの様です。
三碑の記録形態は、上野国に住み着いた朝鮮半島からの渡来人がもたらしたもので、かれらとの密接な交流の中で、当時の都(飛鳥、奈良)から遠く離れた地元の人々によって文字で刻まれたものとあります。
ヤマトの中央政権に対して東国、上野国の権力者とは何だったのか。
羊とは、羊太夫(多胡羊太夫(たご ひつじだゆう))伝説とは何なのか。
歴史ロマンをくすぐります。
書道史の上から、日本三古碑の一つであり、北魏の雄渾な六朝楷書に極めて近く、北魏時代に作成された碑の総称である北碑、特にその名手であった鄭道昭の書風に通ずると言われる。
清代の中国の書家にも価値が認められ、楷書の辞典である『楷法溯源』に多胡碑から39字が手本として採用されたとあり、中国からも文献として貴重とされる碑文の文字だそうです。
建碑されてから再び所在が明らかになるのはおよそ700年後だそうですが、どのようにして後世に現状保存されたのか、碑文の保存状態が良好な事から、碑文側を下にして倒れていた、土中に埋もれていた、覆堂の中で大切に保護されていた、などある程度良好な環境に存在したと推定されています。
現代に伝わった奈良時代の様子がわかるタイムカプセル。
厳重に管理された覆堂に保管されガラス越しに見れます。
そばにボランティアの方がいらして、堂に明かりを灯していただき、色々と暑い中お話を聞かせていただきました。
地域のお宝に並々ならぬ誇りを感じ、熱量がすごかったです。
隣には多胡碑記念館や移築された古墳もありますので、そちらの見学もおすすめします。
記念館は世界の記憶に登録された記念で令和2年3月31日まで入場料無料です。
ボランティアの方の話を聞く事ができ、地元の方たちの過去の歴史を大事にする気持ちがわかりました☺
地震対策とのことだそうです。
基礎部分にぐるりと一周緩衝材が置かれており、なんだか台無しです。
万が一、傘の部分が落ちた時対策だとか。
レプリカがかなり精巧なので、こうなると本物は見せなくても良いかな。
日本で5番目に古い古碑らしいです。
それにしては、ほぼ現代の漢字になっていて我々でも読めます。
ボランティアの説明員さんもいて、親切に教えてくれました。
多胡碑の文章自体はたいしたことはないが、碑の書体の素晴らしさは、窓越しでも分かる。
残念ながら、書体がもう少し分かる工夫が欲しい。
上野三碑の一つですが当時(1300年前)の国府のありかたと治世が石碑から伺われます。
日本1番のヒストリスト―ンです。
上野三碑の一つです。
地味な史跡ですが、歴史を感じます。
祠?に入っている為、直接見ることが出来ません。
ガラス越しになります。
年に何回かは、直接見ることが出来るようです。
他の碑と比べて、交通の便が良いです。
近くに運動公園もあり、大きな駐車場もあります。
多胡碑記念館も隣接されていますので、詳しく知りたい方は、是非そちらを訪れることをお勧めします。
近隣にその他の碑も有りますので、一緒に看るとこをお勧めします。
史跡を見る価値あり。
ふくろうがいました。
人が集まっていて何だろうと思ったらふくろう親子の追っかけ?!でした。
思いがけずに見たふくろうは大きくて可愛かったです。
上野三碑のなかで、いちばんアクセスが良く、文字も見やすい石碑です。
昔を語る多胡の古碑、上毛かるたの「む」です。
多胡碑はかるたで知ってましたが、実際書いてある文字とか見ても良く分かりませんでした。
まあ貴重なのは何となく分かるんですけどね。
奈良時代の西暦711年(和銅4年)に上野国の14番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑です。
碑身の楷書体の文字は、当時最先端の中国文化の影響がみられ、後の18世紀に多胡碑の拓本が朝鮮通信使を通して中国に渡り、書の手本として中国の書家に影響を与えました。
名前 |
多胡碑 |
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ジャンル |
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電話番号 |
027-387-4928 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.9 |
古代日本の漢文石碑のうち最古である上野(こうずけ)三碑の1つ。
和銅4年(711年)3月9日に多胡郡を設置したことが記されており、毎年その前後の日曜日には収蔵殿を開扉して、実物を直接見ることができるばかりか、その他2つの古碑にも回れるバスが特別に運行され、古碑や古代史好きな人には絶好の機会である。
実際、需要が上回ったようで「満員でバスを3台もやりすごして、ようやく来れた」とちょっとおかんむりな方も。
この多胡碑だけであれば、上信電鉄吉井駅にレンタサイクルがあり、待つこともなく来れる。
この碑の漢字を巡っては、鎖国期にあっても朝鮮通信使経由で拓本が送られては清国の文人に知られ、大きな話題となったよう。
六朝期の古雅な書体に似ているとか、初代駐日清国公使の楊守敬も「書法雄古、顔魯公近之」と絶賛である。
自分には(そうなの?)といった感じであるが、分かる人には痺れるほどなのであろう。
敷地に記念館があり、そこにレプリカであるが見やすいものがある。
東アジアを旅行していると、時に王義之の『蘭亭序』をプリントしたシャツを着た人がいて、「永和九年」で始まるそれには確かにその人の美質や風雅な書法愛さえ覚えて感じ入ることがある。
しかし、往時の日本の辺境にあって書には六朝、唐の遺風を留め、尚千年以上の風雪に耐えて現前とする碑それ自体は確かに「雄古」でなくて何であろうか?3枚目は記念館に展示のレプリカ。