その昔、奥州で反乱を起こした安倍貞任は、朝廷より差し向けられた源頼義によって討ち取られました。
貞任の弟である宗任は捕虜となって、遠く京まで送られることになりましたが、多くの家臣が彼を慕い、ともに此の地までやって来ました。
しかし、家臣たちは京まで供をすることは許されなかったので、やむなく当地に留まり、土着することとなりました。
そこで彼等が主君である宗任を祭ったのが、この鳥海神社であるとされています。
その子孫は戦国時代、黒川衆と呼ばれる侍集団となりました。
ちなみに、安倍総理は安倍貞任の子孫であるとか、ないとか(^_^ゞ
名前 |
鳥海神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0277-32-0053 |
住所 |
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評価 |
4.5 |
鳥海神社(とりのうみじんじゃ)御祭神 鳥海弥三郎 安部宗任「奥州安倍氏」昔、浄法寺を含む二戸地方(岩手県)は奥六郡の長である安倍頼時の同族で、甥の安倍富忠が治めていたとみられています。
行基(奈良時代の僧)が開山したという八葉山天台寺(岩手県二戸市浄法寺町)は、富忠や頼時の子が関わったともいわれています。
前九年の役(1062)の際、富忠が朝廷側の陸奥守源頼義に通じて頼時を討ったことが安倍氏滅亡の原因となりました。
生き残った子の安倍宗任(通称鳥海三郎)は捕らわれの身となり、都に連れていかれ、のち九州大宰府に配流となりました。
宗任が陸奥から京へと向かうその途中、当時毛の国と呼ばれ、蝦夷が暮らしていた現在の群馬県みどり市東町まで同行して来た七百余りの一族、家来達は、京へ同行を許されず、その一部がこの地に土着しました。
土着した一族家来は宗任を祀る鳥海神社を建てたといいます。
この小中にはその蝦夷の末裔と伝わる豪族がおり、鳥海神社はその豪族の屋敷神とも云われています。
また、この地一帯を鳥海弥三郎が治めていたとも伝わっています。
近くに鹿角や花輪という地名が残り、陸奥からの伝播地名と云われる場所が残されています。
(ブログ「奥州糠部 九戸四門~西門の歴史~」より)みどり市指定重要無形民俗文化財「小中獅子舞(簓摺り獅子舞)」ことの起こりは定かではないですが、奥州の豪族・阿部貞任は朝廷に逆らい源頼義率いる大軍に討ちとられました(「前九年の役」1062年)。
弟宗任は捕虜となり京に送られる際、宗任を慕った一部の家来たちは当地まで同道しましたが、朝廷の命により京に上ることを許されず、やむなく当地に土着したといいます。
後に、宗任を慕った家来たちは宗任を祀り、鳥海神社と名付け、村の鎮守としました。
それに伴い京より伝わった「ささらすり」獅子舞が村の安全・疫病除け・豊年を祈願して舞われたと伝えられています。
室町時代の前期、京都から来た師匠が、冬季を利用し、村の各家庭を継承していく子どもたちに獅子舞を教え、毎年旧暦の六月と九月に、村にある鳥海神社に獅子舞を奉納したのが始まりとされています。
流派は鷺畑権兵衛火狭流といわれ、小林伊兵衛によって広く流布され、今日に至っています。
昭和十年頃より戦争で人手不足となり、獅子舞を奉納することができず十年以上中断しましたが、昭和三十年代に入り後継者もでき、その後は祭日毎に神社に奉納してきました。
現在は毎年九月の第一日曜日を祭日とし、鳥海神社境内で舞われています。
(「みどり市公式HP」より)