入り口がわかりづらいかとおもいます。
アラハバキさんの神社です。
陸奥総社宮のそばにありますが、入り口がわかりづらいかとおもいます。
ちなみに、ぼんやりーぬTVの足跡シールがあります。
現在は鹽竈神社の境外末社である。
ヤマト王権の北の守りの拠点であった多賀城からみると、ほぼ鬼門の方角に陸奥総社宮(奏社宮)と当社がある。
その社名のとおり、御祭神は荒脛巾神(アラハバキ)である。
車では入れないので、近くの総社宮の駐車場で自転車に乗り換えたが、総社宮からも歩いてすぐのところ。
畑の間にとてもシンプルな鳥居があって、その奥、左に民家のような建物があり、その先の庭のように植栽されている植木の間を通り抜けると、3つの御社殿がある。
そのうちの真ん中が荒脛巾神社。
トタンの屋根の下に社殿があり、靴やら何かよくわからないものまで、たくさん奉納されている。
社殿の前には霊泉の井戸がある。
もとはこの井戸が当社の起源になるのかもしれない。
創建時期は不明だが、仙台藩が編纂した「封内風土記」(ほうないふどき、1772)にはすでに当社の記載があって、おそらく古代、多賀城の成立と深くかかわっている神社と思われる。
明治22年に出版された「多賀城古址の図」をみると、当社は多賀城を囲む築地の比較的近い外の、北東に置かれている。
これはあきらかに蝦夷退散のために置かれたものと思われる。
多賀城は724年頃に築城され、続日本紀の天平九年(737)の条には多賀柵のほか、牡鹿柵、新田柵、色麻柵、玉造柵などの名前がでてくる。
いずれも蝦夷の反乱に備えたものであった。
アラハバキは古来、蝦夷の神であったと考えられるが、谷川健一が「白鳥物語」の中で述べているように、当社が多賀城の北東にあるのはまるで「蝦夷を以って蝦夷を制す」のようなものである。
アラハバキを門客人神としている神社(大宮の氷川神社など多数)がある。
門を守るだけの神であれば、櫛石窓神(兵庫県篠山市、(№0314)があるが、門客人神とは神社の門に置かれた客人(まろうど)神ということだから、随身、随神という眷属神ではなく、客という立場の神であることは明らかである。
このことについて、柳田国男らの学者は地主神が土地を奪われ、従来の神と主客の立場を転倒させて、客神となったことを物語っているという。
あらはばきじんじゃ荒脛巾神は謎の多い神である。
東北・関東地方で祀られていることの多い神であるが、“客人神”という立ち位置で、その出自ははっきりとしない。
おそらく朝廷の信奉する神々とは別系統で信仰されていた土着の神が、取り込まれて生き残ったものであると推測するのが妥当だろう。
それだけ強く信仰されたと考えられる神であるが、ただその性格は多様である。
一方で『東日流外三郡誌』の記述によって固着したイメージがあり、ミステリアスな存在となっている。
多賀城市にある荒脛巾神社は、鹽竈神社の境外末社となっている。
創建時期は不明であるが、安永3年(1774年)の記録には記載されており、その頃には仙台藩より所領が寄進されていたという。
この神社は一般的には“腰から下の病気”にご利益があるとされている。
この神の名にある「脛巾」が脛に巻いて用いられる装具であることから、足腰に関するご利益が求められたのだろう。
また「脛巾」が旅に用いられることから“旅の神”と考えられ、祠にはたくさんの草鞋が奉納されている。
さらに旅から連想されるためか、あるいは神社の立地から境界を守る守護神とも考えられ、“塞の神=道祖神”的性格も帯びており、実際、道祖神のシンボルでもある男根がいくつも奉納されていたりする。
その他にも境内には鋏を奉納した養蚕神社があったり(鋏は「病の根を切る」という意味があるとされているが、これをもって荒脛巾神を“製鉄”の神と考える説もある)、何故か聖徳太子を祀る太子堂があったり、とにかく種々雑多な信仰が荒脛巾神に融合されている感が強い。
またこの神社は民家の敷地内を通って入っていくために、さらに民間信仰らしい雰囲気を醸し出している。
◆客人神(まろうどがみ)一般的には“神社の主祭神と対等もしくは下位に位置する神で、外からやって来て主祭神には従属はしていない状態で祀られる”とされている。
しかし折口信夫らによると、客人神こそが神社創建以前の土着神であり、主祭神の方が後からやって来た神とする。
荒脛巾神の場合も、信仰されている地域が限定的であることから土着神であると見るべきあり、記紀神話成立以降に大和朝廷の支配地となったために神話の体系に組み込まれず、かといって土着の神話において最高神(創造神・開拓神)に近い存在であった故に排除されず“融合”という形で残されたのではないかと考えて良いかもしれない。
しかしながら存在は残されても、彼らが元来持っていた性格は消し去られ(特に後から“支配者”として入ってきた記紀神話の神々と役割が重複する場合)、新たなものに改変されたとも推察できるだろう。
◆『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)戦後、和田喜八郎が発見したとされる古文書。
しかし現在では様々な観点から「偽書」と断じられている。
アラハバキの名は“荒覇(羽)吐”と表記され、津軽地方を治めた一族の名として登場する。
そしてアラハバキ神の像として遮光器土偶が描かれており、これがイメージとして広く流布することになる。
全くの偽書であるとみなすものの、荒脛巾神を東北一帯を治める民の主神と位置づけた点は示唆に富むものがあると思う。
#多賀城跡 から近い所に鎮座する #荒脛巾神社。
特殊な構造の社で祭壇が二つ。
手前には旅や移動の祈願成就にたくさんの靴が奉納されていました。
奥の祭壇には #道祖伸 の扁額。
#アラハバキ は謎の多い古い信仰。
#荒神信仰 とも関係がありそうです(検索:ものづくりとことだまの国、2020年12月2日報告)
アラハバキ族という東北地方の昔の民族の名前の神社。
とても社は小さいが由来は何かありそうです。
当神社は、足の神様と知られており旅の安全を祈願する人々に信仰されています。
現在は、足に限らず腰から下の病に効き目があるとされており祈願のために靴や草履等が奉納されております。
名前 |
荒脛巾神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
全くの民有地のなかにあるようでヒヤヒヤしながら参拝。
今まで読んできた本の影響で、アラハバキ神というと何でか遮光器土偶とワンセットのイメージ。
そのイメージに近い、何か異形の神が祀られているんではないかというちょっとした怖じ気。