矢不来天満宮(やふらいてんまんぐう)は北海道北斗市...
優しい宮司さんでした。
茂別舘跡、 未だ、手付かずですが、これからの、発掘調査に期待したいです。
ご祭神:菅原道眞公ご由緒:嘉吉3年(1443年)安藤盛季矢不来に舘を築く。
長禄元年アイヌとの戦いに稀瑞を感じ舘主下国安藤式部大輔安部家政が家臣池田半太夫源輝元に命じ神勤させた。
爾来,守護神として崇敬す。
貞享5年下国儀季造営、元禄14年,下国要季造営。
同年,拝殿を吉川六兵衛が造営、宝暦2年下国細見が再建,明和3年下国但見安部季政が再建,天明3年7月下国勘由が再建,元治元年再建,明治8年村社に列す。
明治15年下国安芸が茂辺地に遥拝殿再建,明治28年遙拝殿移転,大正6年矢不来より茂辺地に本殿を移転,大正6年神饌幣帛料供進指定。
昭和3年上磯町字矢不来138番地に移転,昭和43年社殿を神明造に改築する。
合祀舘稲荷神社 倉稲魂神 元和元年(1615年)9月創祀 明治11年合祀。
229. 2017.09.27茂辺地の市街地から茂辺地川を渡って山の中へ入って行きます 。
中々の山の中に鎮座されております 。
乳白色の鳥居が特徴的でカッコイイ 。
お昼時でしたが 気持ち良く対応して下さりまして御朱印を頂けました 。
境内末社の 川下社さん の御朱印はありませんでした 。
函館の赤川から延びている函館茂辺地国道からもこられます 。
近くには寝台特急北斗星広場があり懐かしい「 北斗星 」が静態保存をされておりましたよ 。
中を見学することも出来ました 。
カフェが併設されていて食事をすることもできるようでした 。
矢不来天満宮(やふらいてんまんぐう)は北海道北斗市矢不来138番地にある神社で旧社格は村社。
御祭神は菅原道眞公(すがわらのみちざねこう)で例祭日は9月25日。
神社の境内は、道南十二館の一つである茂別館(もべつだて)の遺構内に建てられており、周辺には東方に中世の矢不来館、幕末期の激戦地であった矢不来台場、旧矢不来天満宮跡などもあります。
一ノ鳥居には天保十一年庚子五月吉日(1840年は天保の改革の前年ですね)と刻まれています。
鳥居の上には小石が乗っていて、深夜に誰にも見られないように後ろ向きに石を投げて、それが鳥居の上に乗れば願いがかなうと云うとかなんとか。
(10年くらい前に近くで仕事があったので訪れたときは、もっとたくさんの石が乗っていましたが、掃除したんでしょうね)
函館戦争にゆかりのある地のひとつ。
時期的に遅かったのか社務所にも誰もいない感じがあった。
たぶん桜の木だと思うので今度行ってみたい。
矢不来天満宮📖言い伝え5世紀にここに流れ着いた天神様(菅原道真)像を祭ったのが始まり。
文和年間(1352~1356)、大松一株が漂着した。
アイヌの人たちがよく見てみると、その株の枝と枝との間に、2尺ほどの木像があるのを発見した。
そこで、矢不来の地に祭った。
もちろんアイヌの人々は、この像が道真公だとは知らなかったが、その神々しさに打たれ、「ヤギナイ」という地名を「カムイヤモンケナイ」と改めた。
下国氏の某の代に、ご神体の破損がひどいということで、京師の某という名工へ修理に出した。
その名工は、このご神体の工作の巧みさに驚き畏れながら、心を込めて修理した。
下国氏の重臣がご神体のお迎えのため京に上り、ご神体のある一室に案内されて入ると、5基の寸分たがわぬご神体の像が床に置かれてあった。
その名工はご神体があまりに巧みに出来ていたため、恐れ多いが研究のために4体を模造したとの事。
そして、試みにこれだと信じる1体をとってみてください、と言う。
その重臣は主家の守護神と言いながら、しっかりと拝したことがなくしばらく躊躇してみていたら、その中の一体が目をギョロリと動かし、「我こそ」と言ったように感じたので、早速その一体を指した。
果たして、それはまさにご神体であった。
名工は、専門の自分が見ても間違うこともあるのにと驚愕した📖鳥居の言い伝え明治以前に運んできたが、その途中で丘の上まで揚げるのが難しく、遂には海中に放棄してしまった。
それを後年、誰かがここへ建てたもの。
この鳥居の上を見ると、大小の石が乗っているが、これは深夜人に見られないように後ろ向きに石を投げ、鳥居の上に乗れば願いがかなうという言い伝えがあるため📖社殿の不思議ある時、村人がこの社殿を道路にむけて建て、翌日行ってみたところ、社殿が南を向いていた。
人々は驚いて、いろいろな方法で元に戻そうとしたが、どうしても動かずに困っていた。
そこへ通りかかったある老人がこれを見て、これは神様の意思なのだから、背くものではない、この神はもともと津軽南部より参ったので、その方角が気にかかるのだろう、と言った。
その後、火災で焼失してしまった際にも、同様のことがあった📖矢不来の赤松矢不来天満宮の天神様(菅原道真像)は、赤松の上に乗ってこの地に流れ着き、流れ着いた浜辺には赤松の大木が生えた。
昭和5年(1930)、上磯~木古内間に鉄道架設工事が始まり、この大木を伐ろうとしたが、旭川から連れて来た腕のいい木こりでも伐ることが出来なかった。
ある夜、その木こりの夢に老人が現れて、「切り口に葦を挟んで伐るとよい」と教えたので、その通りにするとようやく伐ることが出来た。
しかし、その後伐った木こりもお祓いをした神官も死んでしまった。
鉄道開通後も走行中の汽車の中に、白衣の老人の霊が現れると騒がれたため、伐った木の一部を矢不来天満宮に祀って木の霊を鎮めた茂別館跡1443(嘉吉3)年、津軽十三湊城主安東太郎盛季が南部氏に敗れて蝦夷島に渡った時、館を造ったのに始まり、1454(享徳3)年、安東政季が南部氏に追われて蝦夷島に渡り、1456(康正2)年、出羽国に去るまでここに居し、のち、その弟と考えられる下国安東八郎家政が箱館の河野政通に援けられて、この館を守護した。
1457(長禄元)年5月、東部の長コシャマインが大蜂起し、和人の諸豪が拠っていた志濃里館・箱館をはじめとする道南の諸館は相次いで攻め陥されたが、茂別館と上之国花沢館の2館だけが辛ろうじて残った。
その後、下国(安東)氏は福山(松前)藩に属し、茂別の地付近を有して代々藩で重きをなした。
茂別館は、茂辺地川左岸の丘地の南端に位置し、南の大館、北の小館とから成っている。
西は茂辺地川岸の崖地で、南と北は自然の沢で限られ、大館の東は掘り切られて空豪となり、小館の東は沢となっている。
大館と小館は自然の沢で画される。
大館・小館とも北・東・南の三方に土塁をめぐらしており、また、各館内にも仕切状土塁が認められるが、大館のそれは後世の改変にかかるもののようである。
北斗市矢不来(やふらい)にある矢不来天満宮に参拝。
山の中の大きな神社。
杉や松の巨木が沢山ある。
石段を登ると砂利参道。
「茂別館跡(もべつかんあと)」の碑、国指定史跡の立て札。
灰色の第1鳥居、砂利参道。
鮭之碑あり、白い第2鳥居をくぐり、砂利参道。
大きくて立派な社務所、大きな資材庫あり。
神木、石碑2基、絵馬、手水舎あり。
乳白色の第3鳥居、コンクリート参道。
奥に銅板葺き屋根の社殿あり。
左に資材庫、神輿庫あり。
右に造営記念、開田記念の碑あり。
社殿の奥に、末社:川下社あり。
☆祭神・菅原道眞公(すがわらのみちざねこう)
知内の山を登ったところにあります。
駅から歩いたら30分はかかるかな。
最近は北海道新幹線で旅行に来て参拝u0026御朱印の観光客が多いとのこと。
名前 |
矢不来天満宮 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0138-75-2033 |
住所 |
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関連サイト |
http://hokkaidojinjacho.jp/%E7%9F%A2%E4%B8%8D%E6%9D%A5%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE/ |
評価 |
4.0 |
昔戦争があって矢が届かなかったとか、そしてこの名前にになったと丁寧に説明してくださいました。
ワンちゃんもオムツして一緒に参拝しても良いそうです🐶