この墓は当時の島の王のものだそうです。
世之主の墓(ウファ) / / .
2023/1月上旬西暦1400年ごろ、沖永良部島は現在の沖縄県にあたる琉球王国の統治下にあり、この墓は当時の島の王のものだそうです。
沖縄からの船を部下の伝令のミスで攻撃と勘違いし、妻子ともども自害してしまった悲劇の王です。
世之主の墓は石門で囲まれ、中には王様と奥様、子や家臣たちの骨壷が安置されています。
(鹿児島県観光サイトより)
桜が綺麗でした。
歴史のある墓には雰囲気がありました。
2022年11月15日(火)に訪問15世紀前後に沖永良部島を治めていた悲劇の王、真松千代(ままつじょ)の骨壺などが安置されているという、奄美群島随一の規模を誇る古墳だという。
周囲を囲んでいる石積みは、明らかに琉球文化のものだという。
1609年の島津侵攻以降にこうした墓が継続していたということでとても興味深いという学者もいるほどの貴重な墓。
あまり大々的に観光地化されていないが、これはおススメです。
1400年前後にこの島を統治した「えらぶ世之主」のお墓。
今帰仁を拠点とする北山王国の関係者のようだ。
奄美群島随一の規模で庭を2つ持つものは珍しいそうだ。
古代の遺跡で、未だに残っているのがすごい。
ピラミッドを見ている様な不思議な気持ちになりました。
2022年5月現在、墓が崩れて中に入ることが出来なくなっています。
とても大きなお墓です。
ガイドの方に説明いただき理解が深まりました。
世之主の墓。
少し崩れている部分もあります。
石の積み上げが徐々に崩れて、修繕されているので早めに見たほうがいいかと思います。
とても大きな・立派なお墓です。
遺跡好きな方にオススメします。
目の前に車を置けます。
寒緋桜も咲いていました。
見事な石造りです。
琉球伝統の大きな美しいお墓です❗
よく整備されている。
周囲の2遺跡への誘導が巧みです。
それなりの規模感のある遺跡でした。
本土の人にとっては、「日本ぽくない文化」として、結構見ごたえがあるのではないでしょうか。
世之主とは、昔島を納めていた島主のことで、『世之主の墓』は石灰岩(サンゴ)の崖をくりぬいて造った琉球式のもので『世之主城跡』はグスク(琉球の城)と共通性があるといわれます。
西暦1400年頃、琉球国には、中山、南山、北山の三王が割拠し、沖永良部島は当時、北山王の領分に帰していました。
初めて沖永良部島の世之主(島主)となった人は、北山王の二男・真松千代(ままちぢよ)という人でした。
『世之主』とは、元々は琉球で地域を納めていた豪族に対する呼び名で、のちには、琉球国王の名称になりましたが、当時の人たちは村々や島々を納め、地域の発展に努め住民の生活を守っている豪族に対して尊敬の念を込めてそうと呼んだのでした。
世之主(島主)となった真松千代は、民衆に慕われる立派なまつりごとを行い、四天王と呼ばれる4人の優秀な家来をもっていました。
そして、真照間慕之前という、中山王の姫を奥方にもらい、嫡子1人をもうけていました。
やがて、琉球の北山、中山、南山の戦いが激しくなり、中山王は南山を陥れ、北山も攻め滅ぼしました。
しかし、中山王は、世之主の奥方が中山王の姫であるため、沖永良部島へ和睦の船を差し向けました.。
ところが、浜で見張りをしていた世之主の家来が、攻撃にやってきた船だと誤って合図を送ってしまいます。
世之主自身も、自分は北山王の二男であるから中山王が軍船で攻撃に来ても仕方がないと考え違いをし、小さい島をもって大国には到底勝てないと判断し、妻子ともども自害してしまいました。
この悲劇の主人公『世之主』の葬られた墓と、かつての居城、そして世之主を祀った神社が上述の3つの史跡です。
『世之主の墓』には、世之主と嫡子、奥方の瓶が安置され、四隅に主君を守るかのように四天王の瓶が安置されています。
『世之主城跡』は従来、木々に覆われていましたが、現在は伐採され、かつての城の形が見えるようになりました。
その城跡を上空から見よると、琉球三山時代の北山王国の国王の居城だった『今帰仁城』(なきじんじょう)と非常によく似ているという指摘があり、保存・活用へ向けてこれから大きな事業になると期待されているそうです。
素晴らしい❗
近くに親族のお墓もあるみたい。
綺麗に残っているので探してみては⁉️
よくわからないことの多い墓。
琉球支配の歴史的遺産。
石垣好きには堪らない壮大な規模の遺跡!ただ興味ない人には全く興味ないかも。
あまり期待しないで行ったら、かなりの規模のお墓。
今は整備中みたいでしたが凄い歴史的建造物です。
名前 |
世之主の墓(ウファ) |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.0 |
かなり大きな史跡です。
形を残している事が凄い。