藩主伊東祐相が飫肥藩の藩校として設立しました。
旧藩校のここから小村寿太郎氏が輩出されたわけですね。
1831年(天保二年)に開講したということは、維新の約40年前ということになります。
飢饉もあったこの時期に人材育成に着手した藩主の方は先を見据えていたのかもしれません。
大河ドラマなどでみかける、幕末あたりの学び舎の風景がみられる。
靴をあがって中にはいると机がずらり。
窓からは飫肥杉がみえ、なかなかの風情。
ここにいるだけでタイムスリップしたかのような気分が味わえる。
これ、無料とは・・・キレイに維持されていて、居心地のいい場所。
飫肥藩・伊東家は江戸時代約280年において、人材育成に精力を注いできました。
その要が「藩校振徳堂」でした。
.......「山尽き候ても才覚尽きず」新しい産業を興し人材育成に尽力して、約280年間飫肥藩を保ち続けました......と日南市のコンセプトの中に書いてありました。
小村寿太郎さんの類希なる聡明さに心から頭が下がりました。
人は心から感じると自然と頭を下げるものだと体感しました今ここに小村寿太郎さんがいなくても。
神社へ通じる道の途中には昔の建物が並んでいる、古い道並みで古い建物が多く、現在整備中の建物も少なくない。
維持するためにどれだけの予算が必要なのだろう。
心配になる。
皆さんに来てもらえれば嬉しい。
この建物は藩校といって今でいう学校のようなものです。
小村寿太郎さんなどもこちらの出身だそう。
振徳堂という名は孟子の教えにある「又従而振徳之」(また疑いてこれを振徳せり)から。
振徳(徳を振るわせる)意味が難しい。
調べたがなかなか意味が出てきませんでした。
この建物について調べると面白いことがいろいろとわかる。
この振徳堂で教授をしていた安井滄州、息軒親子が又歴史と深くかかわっており、この話を辿ると俄然興味が湧く!!宮崎からどのように江戸幕府や明治維新へ絡んでくるのか、とても興味深い!!今でこそ、宮崎から東京へ飛行機などが飛んでいるが当時はどれだけの時を要したのだろう。
建物は復元だが、この土地で歴史上の人物が生きていた。
しばし、立ち止まる。
大きく息をする場所。
心が湧きたつ場所飫肥周辺は散策を目的としていらしてくださいね。
とても素敵な出会いがきっとあります。
気持ち良い場所。
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伊東祐民公が1801年に学問所を開いたのが始まり1831年に創建されこの名称が付いた市指定文化財史跡であるまぁ〜復元だけどね。
ここは、飫肥出身の小村寿太郎が門下生であった旧藩校。
寿太郎の人生に大きな影響を与えた小倉虚平の導きや功績が碑文や年譜として残されている。
またこの古き時代に近隣県に遊学したり、海外留学をしたりする見識の高さと広さに驚かされます。
お堂の中には入れないが、外からでも十分に当時(1860年代_160年前)の様子を垣間見ることができる。
飫肥城や寿太郎生家からも徒歩圏内に位置しています。
★ 駐車場は飫肥観光駐車場に停める事が出来ます。
→徒歩roレンタサイクルで訪れましょう。
★ 飫肥藩13代祐相により開校されました。
★ 西南戦争時には飫肥隊の兵站部となった歴史もあります。
★ 勉強をする机が広い座敷に並んでおります。
★ 敷地が広く樹齢も古い木々が荘厳さを醸し出しています。
名前 |
旧藩校振徳堂 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0987-25-4533 |
住所 |
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関連サイト |
https://www.city.nichinan.lg.jp/museum/shishiteibunnkazai/kennzoubutsu_sekizoubutsu/5/4097.html |
評価 |
3.9 |
振徳堂(しんとくどう)は、天保2年(1831)、藩主伊東祐相が飫肥藩の藩校として設立しました。
創建当時の玄関長屋門、大扁額があり市の史跡文化財に指定されています。