大坂石山本願寺の戦いで敗れ、その後廃城となったら...
久宝寺の北側にある、碑だけがある。
久宝寺城跡✏️
花が咲いていて綺麗だから。
来るなら今の時期です。
久宝寺緑地の帰りにでも。
昔の面影は無い、久宝寺城の石碑と案内板が有るだけ。
駐車場の片隅にあるので私有地かなと思い入りにくいです。
字(あざ)城土居(しろんど)と呼ぶ所、土居の一部が残っていた。
東に“久宝寺城址”の碑がある。
畠山満基の拠城と伝え、子満貞始め渋川氏を称したが、その子光重が安井氏と改めた。
安井定重、定正兄弟は織田信長に仕え、大坂石山合戦の際、石山本願寺の兵に攻められて共に戦死し、その末弟清右衛門定次が家をつぎ、久宝寺屋敷135石の請所として一色支配を認められた。
久宝寺城は室町幕府に仕えた渋川満貞の居城と云われる。
満貞は畠山満基の長子で、渋川郡を領したことから渋川と称した。
麟角堂を創建し又毎年七月十四・五日は城内で精霊祭を催し、領民は五日間盆踊りをしたと言う。
満貞の嫡子の光重は播州安井郷を受領、安井と改姓し、定重の時に織田信長に仕えたが、天正五年、光佐顕如上人の本願寺兵に攻められ、城は陥落した。
城址は寺内町西北の出隅に「城土居」の地名を残している。
「久寶寺村誌」より 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市教育委員会、角谷彰彦 文、乾房子 書、1996年)】
石碑と説明板(石板?)がありましたとさ。
久宝寺、寺内町に昔有った城らしいですが、 大坂石山本願寺の戦いで敗れ、その後廃城となったらしいです。
今は寺内町の北の掘割らしき所の角に石碑が有るのみです。
名前 |
久宝寺城址 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
久宝寺寺内町ちよっとわかりにくい 場所でした。
寺内町から緑地方向寺 内 町 北 西へ。