2017年11月再訪。
御祭神 天神地祇八百萬神式内社三千三十二座境内 東神明社 西神明社本殿の扁額には、日本国中三千餘座天神地祇八百万神、本殿のうえには、日本㝡(最)上日高日宮の文字があります。
今は吉田神社の末社だが明治維新までは日本神道の中心だった場所。
室町中期の吉田神社の神官吉田兼俱は当時伊勢神宮が騒乱で炎上した報を受け鴨川の上流に塩俵を沈め伊勢の神器は吉田山に降臨したと主張し斎場に伊勢両宮を建立、延喜式内社3132座も勧請し、さらに宇宙軸を現すという他に例を見ない特殊な八角神殿大元宮を建立し唯一宗源神道を打ち立てた。
吉田家は代々神祇大副の家柄だが神祇伯白川家をさし置いて神祇管領長上を僭称し、朝廷の許しを得て斎場に宮中八神殿を移し正式に神祇官代として神職免状の発給や賄賂に応じて陳情した神社に宗源宣旨正一位を授けるなど神道家元として神社界を牛耳った。
斎場には正月三ヶ日、毎月朔日と節分しか開門しないので注意。
八百万の神様がお祀りされてます。
室町時代から江戸時代にかけては、あのお伊勢さんを上回る権威のある神社さんだったそうで歴史の移り変わりを感じます。
吉田神社の奥、山蔭神社を進んだところに鎮座する大元宮は、室町末期、吉田兼倶は、吉田神道を創始し、宇宙の根元である「虚無大元尊神」を室町の自邸に祀り、伊勢神宮を含むすべての神社を吉田神社の統制下に置こうと考えた。
1484年には日野富子らの寄付があり、現在地に遷座し、1590年には後陽成天皇の命で天皇の守護神を祀る八神殿が、大元宮の後方に遷座し、伊勢神宮を上回ることとなり、さらに江戸幕府から全国の神職任免権と与えられ、絶大な権力を手にした。
しかし、明治になって天皇家の祖先である天照大神を最高神とする国家神道が勢いを増すなか、吉田神道は陰りを見せ、大元宮は吉田神社の末社扱いとなった。
21/05/07、参拝。
長い歴史の中でいろんなことを見てきたんだなぁと思いながら、六角の後房と茅葺きの八角屋根を眺めた。
八百万の神様を祀っているので、さまざまなご神徳がいただける。
令和三年三月一日AM8:00〜八角形に六角形千木の内削ぎに外削ぎ丸い鰹木と四角い鰹木外宮に内宮三千を超える日本全国の神々言葉が見つからない。
全国3,302の神社を一気に祀るという。
そのためか本殿はかなり特殊な形で、多角形の二棟続き、千木は左右ばらばらに内削ぎと外削ぎ、真新しい朱塗りの色と相俟って、吉田神道の謂れを知ってはいても何か異様な感じを受ける。
八角形の面白い建物。
吉田神道が生んだものですが、千木の切り方が水平や垂直なものがあって、興味につきません。
周りの灯籠も八角形。
結構、見かけます。
江戸時代は、520石の封地を持っていました。
下の吉田神道は20石でした。
それだけ、この建物には意味があるのです。
ここの御札は、吉田神社の社務所で手に入ります。
2017年11月再訪。
ふだんは、扉が閉まっていて、中には入れないようです。
節分のにぎわいがウソのように静まり返っていました。
生まれて初めて見た、不思議な形のお社です。
他の方もおっしゃっていますが、神域にふさわしい空間です。
私の地元の神様にも拝ませていただきました。
吉田神道の教義により宇宙軸を現す大元宮は、始まりの神(虚無大元尊神)を中心に祀り、そこから生まれ来る八百万の神々を祀る事で、全国の神々を祀る社として、様々な御神徳をお授け下さいます。
(吉田神社HP)
2017年11月再訪。
ふだんは、扉が閉まっていて、中には入れないようです。
節分のにぎわいがウソのように静まり返っていました。
生まれて初めて見た、不思議な形のお社です。
他の方もおっしゃっていますが、神域にふさわしい空間です。
私の地元の神様にも拝ませていただきました。
吉田神社末社。
かつて吉田神道の思想を示すために造られた施設です。
伊勢神宮を含む全国の延喜式内社の約3100柱もの神を祀り、それらの神々の頂点として吉田神道が根元神としている「虚無太元尊神」が鎮座しています。
今では信じられない話ですが、明治以前の日本神道では、吉田神道ならびに吉田神社の権威がそれだけ凄かったのです。
由緒書きによれば、こちらへお参りすれば、全国の神社へ参拝したことになるとのこと。
京都市内の隠れたパワースポットです。
名前 |
斎場所大元宮 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
075-771-3788 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.3 |
社殿は 平面上(屋根)八角形と 六角形の後房を付した 珍しい形です。