空気が綺麗、秋は紅葉、春は桜が綺麗。
御靈神社 (上御霊神社) / / / .
大学がいくつか所在する中で、静かに佇んでいるような寺社。
しかし、実は不遇のうちに亡くなった高貴な方々の怨念を鎮めるために設けられた神社です。
そのかいもなくというか、応仁の乱の火蓋が切られた所でもあります。
昔、大学院に通っていた頃は、研究疲れの時にじっと静かにここの空気を吸って、鋭気を取り戻すきっかけにしたものです。
そんな不思議な癒やしの場でもあります。
京都には御霊神社という名の神社が2つあり、御所南の下御霊神社に対してこちらは上御霊神社と呼ばれます。
創建は平安初期にさかのぼる由緒ある神社。
境内は至って静かですが、応仁の乱勃発の地という石碑(あの細川護熙元首相が揮毫したもの)が目立ちます。
正確に言うと応仁の乱の前哨戦となった畠山家の内紛(御霊合戦)が1467年にここで勃発したとか。
京都の街が灰燼に帰した大乱を経て、この神社が変わらぬたたずまいを見せているのも不思議な気がします。
工事中に行ってしまったため紹介写真では豪華な門が見れなかった。
とても氏子さん達の愛が感じられる神社で寄付で台風等で壊れた社殿を直したと板が何個も立っていた。
歴史的にも凄いところでいきなり始まって微妙な最後を迎えたで有名な応仁の乱の勃発地で世が乱れる度に御霊会というものが行われた。
創祀は平安遷都の頃で奈良時代〜平安初期の頃に不運のうちに亡くなった八人が祀られている。
京都御所や相国寺から徒歩15分程の所にこの神社がある。
神社の名前の通り、無実であるにも関わらず流刑や処断された人物みたいなのを祀り怒りを沈めようとして創建されたのが由来である。
また、応仁の乱においては御霊の森にて畠山同士の家督相続による合戦の火蓋が開かれている。
見た目とても質素な感じの神社ですが、由緒を見ると歴史は古く皇室の崇敬が厚く、朝廷から庶民に至るまで広く信仰を集めたようです。
御霊合戦の石碑がある場所には、応仁の乱勃発の地と言うことが書かれており、ここ上御霊神社境内から応仁の乱が始まったことを知りました。
また200年の歴史がある西門(楼門)や、伏見城の四脚門を移築した南門など建築物にも見どころがあり、いただいた御朱印も素敵な絵入りのものでした。
静かな落ち着く神社です。
秋は紅葉と銀杏が綺麗ですよ。
空気が綺麗、秋は紅葉、春は桜が綺麗。
桓武天皇の時代の御霊会に由来し、室町時代は応仁の乱発祥地にもなったのだそう。
応仁の乱、発端の地です。
疫病除け、厄除けの御利益があります。
息子が小さい頃よく通っていたアトリエで、絵を描きに来てた神社。
入り口付近しか見てなかったが中は奥深く、応仁の乱の発戦の場所だったなんて知らなかった。
怒りや呪いを取り去ってくれ世の中の平安、平和をお守りする神社。
真っ赤な紅葉🍁と薄く淡い紅葉がとても綺麗。
昨日の夜、友人から同じようなテーマのお腹マッサージをしてもらったので、リンクしてる。
今の自分に必要だから足が向いたんかな。
地下鉄鞍馬口から徒歩5分。
応仁の乱の発祥地と言うことで訪れた。
足利将軍の力がなくなって、先ずは畠山政長(東軍)を畠山義就(西軍)が襲撃、これを御霊合戦というのが事の発端。
やがては全国の大名を巻き混んで、細川氏率いる東軍と山名氏率いる西軍が、幕府の主導権を巡って争うんだな、1467年から11年間の内乱だ!これで、京都の寺院は多くが焼けてしまう。
とほほ!で、東軍総大将、細川勝元、その末裔(子孫)故に、石碑の文字は元総理大臣の細川護煕さんということですね。
境内に13社の神霊を祀ってあるそうです。
平安時代は疫病はたたりと言われ、鎮める為の神社として、朝廷や庶民に信仰され、かつ、御所の守護神とされた事から、皇室の崇拝も強く、皇室からの寄贈品も多く保存している様です。
歳時記を調べるとお披露目も有ります。
立派な楼門に南門、拝殿に本殿。
取り巻くお稲荷さんや各社の社の他に芭蕉の石碑、創建1200年記念桜、樹木が森を作っています。
さえずり市の開催、祭り、地元民の参拝、鳥の巢には雀が遊び、銀杏の実も、そして1200年の由緒。
ここは間違いなく地元の人に愛されてる神社です。
駐車場は南側の門をくぐって境内に車🚙を停めれるみたいです。
自転車🚲とバイク🏍は西側の入口の前に停めれるみたいです。
境内はそれほど大きく有りませんが、色んな木🌳が植えられていて、凄く雰囲気の良い神社でした。
特にクロマツは凄いと思いました。
他にも見れませんでしたが【牛車】が置いてあったり、【応仁の乱発祥の地】であったり見どころ多い神社でした。
21年5月25日に訪れました。
『御霊神社』は、平安遷都の時に桓武天皇の勅願により、不運のうちに亡くなった早良親王(崇道天皇)などの怨霊を鎮めるため創祀されたと伝えられています。
平安時代、天変地異や疫病流行は怨霊のたたりであると信じられていました。
怨霊を手厚く祀ると神霊となり、疫病などから守護してくださるという御霊信仰が 広まりました。
御霊信仰が高まるとともに、『御霊神社』は疫病除けの霊社として信仰を集めました。
また、応仁の乱発端の地としても知られています。
御朱印をいただきました。
御霊祭御車図の特別御朱印、祓の護符、紋菓(菓子)のセットでした。
楼門が立派で目を引きました。
有名な神社であり 訪れる人も多い 見事な山門に拝殿本殿共に 格式を感じさせる。
平安京を開いた桓武天皇の弟君早良親王の御霊を鎮める神社です。
厄除けの御利益があります(‐人‐)
いつも綺麗に手入れされていて空気感が気持ち良いです。
今年も桜は綺麗でした。
中規模な神社で境内は綺麗に整備清掃されていました。
珍しい神紋でした。
御朱印は書き置き対応でした。
同志社大学の北際、地下鉄鞍馬口から歩いて10分程度にありますお宮さんです。
歴史好きにとっては応仁の乱の始まりの舞台となった場所としても有名です。
こちらは御所南あたりにある御霊神社と併せて、北側にあることから上御霊神社と呼ばれています。
初めて立ち寄りましたが、こちらの素晴らしいところは、落ち着いた雰囲気、静謐さです。
周囲を民家に囲まれていますが、こちらに漂う空気が少し違うように感じられます。
訪れたときのイメージで異なるかもしれませんが、バワースポットとは違う空気の良さがありました。
その他の名所からは少し離れた位置にありますが、鞍馬口周辺に行かれる際にはぜひ訪れていただきたいと思う古刹です。
794年(延暦13)崇道天皇を祀ったのが始まり。
その後仁明、清和天皇時代をへて7柱が合祀され、863年(貞観5)悪疫退散の御霊会が勅命で催された。
国家、皇室、都民守護の社として朝野の崇敬を集めた。
なお境内の‘御霊の森’は応仁の乱の発端となった地との事。
静謐です。
京都の街中にストンと根差してる社に感じます。
京都人の中では知らない人がいないと言う、超有名な神社ですよ😃よくお話に出る「京都の戦前は応仁の乱の前」と言う応仁の乱の発祥の地であります(^o^)歴女の方、歴史フリークの方は一度はご訪問あれ(^o^)
市営地下鉄「鞍馬口」駅から、徒歩3分ほどの場所。
緑豊かな境内は春は桜、アヤメ科のイチハツ、紅葉なども楽しめる。
応仁の乱発端の地。
境内には、歴史を感じるものもたくさん。
木々に囲まれた神社。
病気平癒を祈願しました。
御朱印をいただきました。
一緒に紋菓をいただきました。
可愛くて優しい味でした。
応仁の乱発祥の地として石碑が門前に立てられてます(それほど大きくないのでご注意を)。
地下鉄鞍馬口から3分くらいと立地も便利です。
京都の歴史を感じられます。
10月中旬に、下鴨神社横の加茂みたらし茶屋の脇を通りら出雲路橋を渡って参拝。
夕刻、逢魔時に訪れたというのもあるのか、気持ち良い風が吹いており、凛とした木々の佇まいの中で、清廉な気持ちになれた。
京都神社・仏閣巡りの中でも最上位の素敵な空気感(御霊神社(上御霊神社)という名前からオドロオドロしたものを想像してしまっていたのもあるが)。
御朱印を授与してもらった時に紋菓もいただいた。
応仁の乱発端の地と言われてもピンとこないくらい、静かに住宅街の中に佇んでいる。
地下鉄鞍馬口駅下車東へすぐ。
怨霊を祀る神社。
昔の人は怨霊を祀ることでその祟を鎮めた。
寺町通り丸太町下がるにも同じ目的の下御霊神社がある。
応仁の乱はここの境内の森で始まった。
後の戦国時代の始まりである。
非業に倒れた人々を、神として祭り上げることで、その祟りを鎮めようとした御霊社。
境内は存外広く、「御霊の森」と呼ばれるにふさわしい木々のざわめきと鳥たちの囀りがある。
早朝ということもあり、ピシリとした空気が非常に心地よかった。
南側の神門は修復中。
応仁の乱が発生した場所として知られているところで、入口や境内にそのことを示す石碑と立て札がある。
今日、私が訪れた時には、団体観光客がきており、ガイドの説明を受けていた。
人も少なく良いところ近くの餅の店が美味しかった半額だったし西門から出て北に行ったところにあった。
非業の死を遂げた皇子や皇女などの御霊が怨霊化し、都に禍をもたらしたことからその禍を鎮める為に建立しました。
京の都は、怨霊や鬼などが出没する場所として魔界伝説が多くあります。
晴明神社の一条戻橋の式神や黄泉帰りに渡辺綱の鬼退治、六道珍皇寺小野篁の六道の辻、百鬼夜行や丑の刻詣りなど。
興味深い話が多くあります。
由緒ある神社です。
境内に車が止められ、拝観料も不要です。
木々のさわさわを聞きながら、手を合わせます。
神社に何の不足もありません。
でも御朱印を頂く時、社務所の方が…ずっと無言。
挨拶をしても無言。
最後に「500円」この一言だけ!今日は機嫌が悪いのかな?そして、大抵の自社仏閣の御朱印が300円なのに、御霊神社の紋のお干菓子が2個付いて500円。
別にいいけど、お干菓子1個100円?こんなセコイ考えの私は罰当たりですね。
(18/01/13)京都十六社御朱印めぐり御朱印をいただきました。
(17/11/12)御朱印をいただきました。
オリジナル御朱印帳(白)があります。
御祭神 吉備聖霊(六座の和魂) 崇道天皇(桓武天皇皇太弟 早良親王) 伊予親王(桓武天皇皇子) 藤原大夫人(伊豫親王御母、贈従二位藤原吉子命) 藤原大夫(藤原廣嗣) 橘大夫(橘逸勢) 文大夫(文屋宮田麻呂) 火雷天神(六座の荒魂)京洛八社集印めぐり の一社。
京都十六社。
地下鉄烏丸線:鞍馬口駅より300m。
境内に駐車スペースがあります。
地域密着型神社、御朱印を頂けます。
御朱印帳は真っ白で可愛いですが、ちょっと初穂料が神社の維持の為にかわいくないです、軽く寄付の気持ち。
応仁の乱勃発の地。
「みたま神社」ではなく「ごりょう神社)
立派な門の雰囲気の良い神社です。
応仁の乱勃発の地でもあります。
梅は散り、今緑が増してきたように思います。
桜はないので、静かな境内です。
現在の祭神は以下の八柱で、「八所御霊」と称される。
火雷神と吉備大臣(吉備聖霊)は後年追加された。
崇道天皇(早良親王。
光仁天皇の皇子)井上大皇后(光仁天皇の皇后)他戸親王(光仁天皇の皇子)藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)橘大夫(橘逸勢)文大夫(文屋宮田麿)火雷神(以上六柱の荒魂。
)吉備大臣(吉備真備)祭神は9世紀前半から民衆の間で広まり、863年(貞観5年)には公式の御霊会で祭られるようになった御霊信仰が元になっている。
当初の御霊会で祭られたのは崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、観察使(藤原仲成[1])、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)の六所御霊であった。
追加された二神について、火雷神は菅原道真、吉備聖霊は吉備内親王、または伝承にある井上内親王が産んだ皇子とする説、さらに火雷神は落雷を司る雷精で、吉備聖霊は鬼魅(災事を起こさせる霊力)であると解釈する説もある[2]。
相殿に小倉実起・小倉公連・中納言典待局・小倉季判、若宮に和光明神(菅原和子)を配祀する。
これらの諸神は(吉備真備を除いて)いずれも政争に巻き込まれて憤死した人々で、その怨霊を慰めるために創建されたのが当社である。
かみごりょうさん、、御靈神社(上御霊神社)です。
市営地下鉄「鞍馬口駅」から歩いてスグです。
桓武帝の御代、疫病の流行を収めるための御霊会がこの社の始まりとされています。
御霊会とは過去になくなった人々の慰霊をすること。
早良親王(崇道天皇)、橘逸勢や伊予親王など不遇であった過去の人々を慰めたのです。
また中世には管領同士の私闘がここで行われ、それが応仁の乱の発祥になったとされています。
(おいおい、慰霊できていないやないか~い…(・ω・))何度か時代劇の撮影場所にもなっています。
各地に御霊神社がありますが、福知山のそれは明智光秀を慰霊するものとなっているようです。
名前 |
御靈神社 (上御霊神社) |
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ジャンル |
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電話番号 |
075-441-2260 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
最近某YouTube動画にハマって室町時代の戦いに興味津々なんです。
御霊の戦いってどこであったんや?って検索して御霊神社に初訪問しました。
畠山義就vs畠山政長が応仁の乱の前哨戦で戦った場所です。
この戦い自体は畠山義就が勝ったんやけど将軍の足利義政が禁止してたのに山名宗全が畠山義就を支援して細川勝元は畠山政長を支援しなかった事で勝負が決まった。
そこから応仁の乱にまで発展したんやけどこの畠山家の家督争いは明応の政変でも絡んでいて畠山政長はその時に切腹したんやけど十数年間続いてるグダグダな展開ですね。
応仁の乱の前後から明応の政変ぐらいまで大河ドラマでやって欲しいわ。
とりあえず御霊神社の御祭神は早良王??この人って怨霊や無かったか?長岡京に遷都するとかあの辺やったと思うんだが怨霊でも祭られるって日本人のこう言う文化って面白いよな。