追い落とされて滅ぼされた和田氏の首塚。
わかりやすく、きちんと整備されていまさた。
公園の設計ですが、実際は、全体が墓所みたいな造りです。
ここから、畠山重保の墓誌まで350メートルの距離なので、一気に廻れます。
和田義盛の戦いは、和田合戦と呼ばれ、御所付近から七里ヶ浜にかけ、多くの方がお亡くなりになりました。
土壇場の書状が無ければ などなど、歴史が変わりかねない、御家人達による大戦だったようです。
この場所は、和田一族の墓で、和田塚となる前は古墳時代の墳墓であったそうです。
鎌倉時代の初めに北条氏と対立し、戦いを挑んで敗北した和田義盛の慰霊碑が立っています。
言い伝えでは、由比ヶ浜に集まった和田勢と、鶴岡八幡宮の近くにある将軍御所に集まった北条氏の軍勢が激しく衝突したそうです。
市街地を挟む2〜3キロの範囲で何千人もの武士が市街戦を繰り広げるのはいかにも鎌倉武士らしいです。
鎌倉殿の十三人(2022年、NHK大河ドラマ)では、憎めないキャラで通っている義盛が、北条氏との戦端を開くまでに義時とどのような駆け引きを繰り広げ、同族の三浦義村から裏切られてしまうのか、これから先の放送が楽しみです。
北条義時の挑発に耐えかねて挙兵した和田義盛。
奮戦するも敵の援軍は無尽蔵…息子を討ち取られ悲しみにくれたところを自身も討たれてしまうのだった…💀
幕府内で北条氏の地位を固めていくため、追い落とされて滅ぼされた和田氏の首塚。
狭い鎌倉の中に三浦氏、比企氏など様々な首塚、やぐらがあって、なんともまあ、鎌倉時代とは同じ幕府内で争う、荒々しい時代だったんだなあと思う次第。
階段を上ると小さな公園ぐらいの広場があり、和田氏を弔う塚がある。
木々の下に静かに安置されている塚の周りはここばかりは時間の流れが違うような気にさせられます。
合掌。
2021年1月22日 自転車できて大仏坂切通しから覚園寺までハイキングコースを歩き大仏坂切通しに置いて来た自転車を取りに行く途中て和田塚に寄りました。
和田合戦にて北条義時に敗れた和田義盛一族の首塚。
実際は由比ヶ浜の水際の仮屋に和田側の武将の首が並べられ義時自身が首実検をしたと伝えられる。
住宅の中に売地のようにぽっかりとある。
和田一族だけでなく、関東の震災や戦没慰霊などもあって慰霊のごった煮状態だった(古墳だったこともあるとか)。
鎌倉駅からも徒歩圏内で、雰囲気を味わいたい人にもおすすめ。
しっかり手を合わせておきたい。
和田合戦で敗れた鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛公や、与力した中村党や、恐らく戦った北条方方の武士達のも眠っている場所。
忠義の武士達の供養塚。
昔はもっと大きい盛り土だったそうだが、風化して平たくなっている。
表面にも風化して細かく成った骨片が石みたいに少し残っていたりするのは司馬遼太郎さんも紹介している有名な話。
怖い場所ではなく、己の信念に従い正義を貫いた勇敢な武士達が眠る大切な場所。
神社の様に聖なる場所であり、御寺の様に先人に今日の発展の基礎を築いて下さった事を感謝する場所。
又、和田義盛公や中村党の土肥家の武士に御参りに行きたい。
侍所別当として源頼朝の厚い信任を得ていた和田義盛と一族を葬った所と伝わる。
北条義時の謀略にかかった義盛は一戦に応じたが、わずか2日で敗退。
150名余の一族が自刀した。
タブの木の根元に記念碑と墓碑、五輪塔が立つ。
1892年に道路拡張工事の際に無常堂塚が削られ、多くの人骨や刀が発見された、和田合戦時の戦死者のものだという事になり、和田塚と呼ぶようになった、その後1909年に和田一族戦没地と記された碑が建てられた、1213年に起きた和田合戦で和田一族は滅亡、此れを期に同族三浦氏の権威も失墜し、北条氏の勢力は強まっていった、江ノ電和田塚駅近く、住宅地の中にポツンと開けた小さな林地の雰囲気は面白い。
名前 |
和田塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.6 |
鎌倉時代初期に活躍した御家人、和田義盛の一族を埋葬した塚。
非常に小ぢんまりしている。
かなりマイナーな武将だが、大河ドラマ鎌倉殿の13人の影響でそれなりに賑わっていました。
ドラマでは結構いい役どころだったみたいですね。