自然と調和するような気が溢れているような印象を受け...
初詣で訪問しました。
と言っても、すでに1月中旬。
そのため、境内は空いていて、色々と散策できました。
鶴岡八幡宮境内から柳原神池を通りぬけて白旗神社へ。
11/27(月)に訪れましたが、こちらは人通りも少なく水路脇の紅葉もこれからといった感じでした。
ご祭神は源頼朝と源実朝で、社名は源氏の旗である白旗(しらはた)に因むとの事。
鶴岡八幡宮の末社。
若宮(下宮)の前を右手に歩いて数分、本宮(上宮)からは右手にある大臣山 入口(立ち入り禁止)の脇の階段を下って数分の所にあります。
柳原神池(やないはら しんち)という池のすぐ近く。
黒塗りの社殿はひと際目を引きます。
黒く塗られたのは、1897年(明治30年)頃で、本宮の向かって左側奥にあった頃は、他の社殿と同じく朱塗りだったそう。
歴史は古く、朝廷から1200年(正治2年)に「白旗大明神」の神号を授かり、源頼朝をご祭神として北条政子が創建したと伝えられているようです。
明治時代の神仏分離令まで、現在の白旗神社の場所には「薬師堂」が建っていましたが、「薬師堂」は1870年(明治3年)に取り壊されました。
そして、本宮に向かって左側奥にある、宇佐神宮 遥拝所の付近にあった「白旗社」を現在の場所に移築し、さらに丸山稲荷社の横の階段を下った付近にあった「柳営社(りゅうえいしゃ)」に祭られていた源実朝を合祀して、1885年(明治18年)に遷座したもの。
「柳営社」は丸山稲荷社のご本殿として利用されています。
豊臣秀吉が参拝した際に、笑いながら源頼朝の木像に話しかけて背中をポンポンと叩いた、という逸話が有名ですが、それはまだ、この神社が本宮の左側奥にあった時のことです。
この源頼朝の木像は、東京国立博物館に収蔵されているものらしい。
社殿の入口の門は祭礼の時以外、閉じられており、普段は中に入れません。
源頼朝の最初の官職「右兵衛権佐(うひょうえ ごんのすけ)」を意味している「武衛殿(ぶえいでん)」の篇額(へんがく)が掲げられていますが、とても見にくい。
右によったところから、なんとか「武衛」と読み取ることができました。
例祭日は、5月28日(例祭)、8月9日(実朝祭)、10月28日(文墨(ぶんぼく)祭)です。
周りは木々が多く、とても落ち着く雰囲気。
祭礼の時以外、門の前でお参りするだけですので混雑する事もないと思います。
この白旗神社は頼朝、実朝が祀られています。
鶴岡八幡宮の境内にありますが、参道とは逸れた方向になっているため非常に静かな場所です。
八幡宮から法華堂に向かう時の最短ルートになるのでぜひ立ち寄ってみてください。
法華堂の近くにも白旗神社がありますが、あちらは頼朝のみが祀られているとのこと。
そちらには大河ドラマでキーアイテムになっていた小さな観音様がお堂に納められていたらしいですが、今もあるのかな。
鎌倉時代初期の創建とされるが詳細は不明。
祭神は源頼朝と実朝で「武衛殿」ともいう。
頼朝は一時、右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)に任官されていたので唐名で「武衛」(ぶえい)とも呼ばれていた。
「武衛殿」の扁額の字は薩摩藩の島津久光の筆と伝える。
島津はちゃっかりと頼朝の子孫であることをアピールしているわけだが、1ミリの根拠すらない。
鶴岡八幡宮の境内にあります。
裏手に小高い山、緑があり、黒塗りが印象的で、何ぞやよい気を感じる神社でした。
比較的、人も少なくゆったり御参りできます。
本殿及び拝殿は 鎌倉市 指定 文化財(建造物) 美しいお宮御祭神 源頼朝 源実朝。
鶴岡八幡宮の奥の方にありますが、鶴岡八幡宮とは対象的に黒塗りが素敵な社殿です。
手水舎の写真だけは1ヶ月前のものです。
源頼朝公、実朝公がお祀りされており、黒塗りの御社殿が印象的です。
御祭神の御神徳にあやかり必勝や学業成就で篤く信仰される神社です。
とっても落ち着く空間で鶴岡八幡宮にお参りされるかたはぜひ立ち寄ってくださいね。
鶴岡八幡宮に比べると小さく静かですが、個人的にはこちらの方が、木々の葉の音や鳥の鳴き声に気持ちが向き、自然と調和するような気が溢れているような印象を受けました。
源氏の神宮、小ぢんまりして綺麗で静か八幡宮より前に在りました。
2021年2月6日現在、とても暖かく梅の花も景色に色を付けてました。
もうちょっと撮影が上手ければ…。
この白旗神社は頼朝さんと実朝さんでした。
ローマでも同じですが神格化されるんですね。
白旗神社。
富岡八幡宮の境内社。
御祭神は源頼朝。
源頼朝を祭神として北条政子が創建したのだと伝えられている。
(一説には源頼家の創建とも。
)もとは上宮の西側にあったが、1885年、源実朝を祀る柳営社と合祀され現在地に遷された。
白旗神社は「武衛殿」と称され、掲げられている額は、幕末の島津藩の実質上の最高権力者島津久光の筆と伝えられている。
「武衛」とは兵衛府の唐名で、「兵衛府」は天皇やその家族の近侍・護衛のための官庁。
兵衛府には、左兵衛府と右兵衛府があった。
頼朝の最初の官職が「右兵衛権佐」だったため、「権大納言・右近衛大将」に任ぜられるまで、「武衛」と称している。
そのため御家人からは「佐殿」(すけどの)と呼ばれていた。
また、豊臣秀吉が小田原征伐の後に参拝したさい「御身と我は天下友達なり。
」と、笑いながら頼朝像の背中をポンポンと叩いたという逸話がある。
御朱印いただきました。
42.鶴岡八幡宮 白 旗 神 社鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)に源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請して創建した鶴岡若宮を前身とし、1180年(治承4年)に源頼朝が現在地に遷した。
以後、武家の都「鎌倉」の中心に置かれ、長く武家の崇敬を集めた。
・白旗神社は、1200年(正治2年)、 朝廷から「白旗大明神」の神号を賜り、 源頼朝を祭神として北条政子が創建したのだと伝えられている(一説には源頼家の創建とも。
)。
もとは上宮(現在の鶴岡八幡宮がある場所)の西側にあったが、 1885年(明治18年)、源実朝を祀る柳営社と合祀され現在地に遷された。
この場所は、明治の神仏分離前まで薬師堂がありました。
柳営社の社殿は、丸山稲荷社の社殿として移築されている。
白旗神社は「武衛殿」と称され、掲げられている扁額は、幕末の島津藩の実質上の最高権力者島津久光の筆と伝えられている。
源氏池の畔に置かれた「さざれ石」の背後に置かれているのは、白旗神社の石鳥居の笠木。
さらに、大きな笠木も置かれているが、「大きさ」からして、関東大震災で崩壊した二の鳥居か三の鳥居のものと考えられる。
向拝の四本の角柱は、川口の鋳物師によって製作されたもの。
~神仏混淆の名残・・・~ 白旗神社の手水舎の水盤には、蓮弁の彫刻がある。
明治の神仏分離によって、鶴岡八幡宮内にある仏教関連施設は全て廃されたが、白旗神社の「手水舎」には、神仏混淆の「鶴岡八幡宮寺」であった頃の名残を見ることができる。
~源頼朝像と豊臣秀吉~ 白旗神社には、源頼朝坐像が安置されていたといわれ、1590年(天正18年)7月、小田原城を落とした豊臣秀吉が奥州へ向かう途中で鶴岡八幡宮を詣でて、頼朝像を撫でながら天下を語ったという逸話が残されている。
秀吉は、頼朝像を見ると近くに寄っていき、「微小な身の育ちでありながら天下をとったのは、御身と吾だけである。
しかし、御身の先祖は関東で威をはり、挙兵すれば多くの兵が従い天下をとるのも容易であったろうが、吾は名もない卑属から天下をとったのだから、吾の方が出世頭である」といったそうである。
そして、「御身と吾は天下友達である」といって像の背中を叩いたという逸話が残されている。
明治の神仏分離によって創建された西御門法華堂跡の白旗神社の祭神は,源頼朝です。
2019年10月4日に参拝、神奈川県川崎市の家から40キロを徒歩で参りました!こちらの白旗神社の神様は心が通じます笑神様、道中の無事安全をありがとうございます!
鶴ケ岡八幡宮を参拝して近くを散策した際、こちらの神社の前を通りました。
見た目ですが、黒色が印象的です。
並ばずにお参りさせていただきました。
名前 |
白旗神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0467-22-0315 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.3 |
白旗神社は、1200年(正治2年)、朝廷から「白旗大明神」の神号を賜り、源頼朝を祭神として北条政子が創建したのだと伝えられている(一説には源頼家の創建とも。
)。
もとは上宮の西側にあったが、1885年(明治18年)、源実朝を祀る柳営社と合祀され現在地に遷された。
したがって、現在の祭神は、源頼朝と源実朝。
例祭は、5月28日。
※\t明治の神仏分離前までは、この場所には薬師堂があった。
※\t柳営社は丸山稲荷社の社殿として移築されている。
2022年5月 往訪へぇ、北条政子が建てたのか。